瓜破北遺跡(URO7−3次)発掘調査 現地説明会資料
2008年(平成20)3月15日(土)
大阪市平野区瓜破西1丁目
大阪市教育委員会/財団法人大阪市文化財協会
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
写真はサイト管理者湯川が撮影したものです。
大阪市教育委員会と(財)大阪市文化財協会は、平成19年10月下旬から府営瓜破住宅の建て替えに伴う瓜破北遺跡(平野区瓜破西1丁目所在)発掘調査を実施してきました。
今回の調査地は、道路を挟んで東西に分れています。東側調査区は南北45m、東西90mで、東西に長い逆L字形をしています。西側調査区は南北55m、東西21mの長方形です。
発掘調査の結果、東側調査区では、弥生時代後期未の集落跡が見つかり、溝や井戸から多数の土器が出土しました。さらに、後期旧石器時代のナイフ形石器が出土したほか、縄文時代前期(約7,000年前)の北白川下層式土器を伴う石器製作址をはじめ、縄文時代中期(約5,000年前)の船元II式土器が見つかりました。
また、西側調査区では、最終氷期(ヴィルム氷期)最寒冷期(およそ2万年前)前後の石器製作址や縄文時代の石器遺物が見つかり、ナイフ形石器や角錐状石器、石鉄などが出土しました。
瓜破北遺跡は大阪市平野区に所在する旧石器時代から江戸時代にいたる複合遺跡で、遺跡の規模は東西・南北とも400mほどの範囲です。瓜被北遺跡の南側には弥生時代の遺跡として戦前からその存在が知られていた著名な瓜破遺跡が接しています(図1)。瓜破遺跡と瓜破北遺跡は、大阪平野南部の丘陵地から北に延びた河内台地の先端に位置しています。台地の先端は瓜破台地とも呼ばれており、この台地先端の大半が両遺跡の範囲となっています。瓜破北遺跡はこの台地の北西の一角を占めています(図2)。
図1 瓜破北遺跡の周辺
図2 瓜破北の立地
今回、弥生時代後期末ごろの集落や、旧石器時代から縄文時代の石器遺物が見つかった調査地は、瓜破北遺跡の西側すなわち、瓜破台地のなかでも北西先端の斜面部にあたる場所に位置しています。
弥生時代後期〜古墳時代初頭の地形復元図で見ると(図3)、瓜破台地の東には現在の阪神高速・内環状線に沿って南北に深い谷があり、この谷や周辺の低い部分が河川の洪水によって埋没した後の微高地上に集落が立地しています。これよりも古い旧石器〜縄文時代においては、さらに地形が急峻で、瓜破台地上にはいくつかの深い谷や河川がありました。
図3 弥生時代後期〜古墳時代初頭の地形復元図
調査区では現地表面下1.5m前後の地層から、弥生時代後期末(紀元1世紀後半頃)頃の掘立柱建物SB26、竪穴建物SB32および竪穴建物の周壁溝とみられるSD06・07、井戸SE13・20・40・46・66・72・76・90・91をはじめ、多数の土壌など、人々の住まいや生活に伴う遺構が調査区の東南部を中心に見つかりました(図5、写真1〜4)。また、調査区の北東部には集落の区画溝の可能性のある多量の土器が投棄されていた溝SD02がありました。これらの遺構や遺物は東側調査区が弥生時代後期末の集落の一画に当たることを裏付けるとともに、当時の生活の様子を今に伝える大切な資料になりました。
写真1 東区中央〜西部 弥生時代後期末の遺構
以上のように、東側調査区では弥生時代後期末の瓜破北遺跡の集落の実像に迫る遺構や遺物が見つかったほか、集落の範囲は従来推定されていた範囲よりもやや西側寄りで、東側調査区付近が集落の西端であることがわかりました(図3)。
縄文時代前期の石器製作址 調査区の西部では東側に谷を望む台地上に営まれた縄文時代前期の北白川下層式土器を伴う石器製作址が見つかりました(図5)。石器製作址では石器を作った際にできた剥片や石屑をはじめ、石器の未成品が出土しました。また、黒曜石の剥片や焼けた石を含む礫群がありました。台地から東の谷に続く斜面でも縄文時代前期の羽状縄文の見られる土器片や石器遺物が出土しています(図4)。
この他にも東側調査区では弥生時代中期の石鏃、弥生時代前期の土器や磨製石斧(太型蛤刃石斧)、縄文時代晩期の滋賀里II式土器、縄文時代中期の船元II式土器などが見つかっています。
図4 縄文土器拓本
図5 東側調査区で見つかった遺構
SE91 |
SE91 |
SE13 |
調査区の現地表の標高は約5mです。旧石器〜縄文時代の石器遺物は現地表から2mほど下に堆積していた黄褐色シルト層の中から発見されました。遺物は発掘区の中央部西側の約100平米の範囲に分布していました(図6、写真5)。現在までに確認された総数はのべ2,000点を超えています。現在、調査区の南半分は埋め戻しており、北半部の調査を行っています。
図6 石器遺跡の分布状況
写真5 南半部石器遺物の出土状況
出土した旧石器の種類にはナイフ形石器(ないふがたせっき)や角錐状石器などがあります。ナイフ形石器・角錐状石器(写真6左下の3点)は刺突や切削用の道具です。ほかには、石器の材料となる剥片(はくへん:石片)やそれらを打ち剥がした石核(せっかく:石の芯部分)、さらに石器を作る際に生じた砕片(さいへん:われくず)などがあります。これらの石製遺物は発掘区の中央から西の標高の高くなる部分で、7m×20mの広い範囲に分布していました。とくに、北半部の南西隅では、大きな破片が割られて散らばった状態で出土しています。こうした石製遺物の集中部は旧石器人が石器を作った跡だと考えられます。また、出土品の大多数は奈良県二上山産とみられるサヌカイトという岩石を使用していますが、ほかに近畿地方北部産のチャートや瀬戸内地方産の凝灰岩があります。平野区でこれまで見つかった旧石器時代の遺跡に比べてバラエティーに富むことが特徴です。
サヌカイト製のナイフ形石器の多くは、横長の剥片を使用して製品に仕上げる瀬戸内技法と呼ばれる技術で生産された国府型ナイフ形石器と呼ばれるものです。瀬戸内技法は、日本列島の後期旧石器時代後半期における代表的な石器製作技術の一つで、近畿地方では横長の剥片を剥がしやすいサヌカイトに用いられた技法です。また、チャート製の石器には、縦長の剥片を使ったナイフ形石器や、切出形と呼ばれる小型のナイフ形石器があります(写真6左上の2点)。出土遺物には完成品の割合が高く、ナイフ形石器は約50点以上が出土しました。瓜破・瓜破北遺跡で瀬戸内技法を用いたナイフ形石器がこれほどたくさん見つかったのは、今回の調査が初めてです。
写真6 出土した石器
今回、旧石器遺物が出土した地層は、旧石器時代から縄文時代にかけての数万年間にわたって堆積したものと思われます。現在、地層の精密な調査ととともに火山灰分析作業を進めており、この方面からの年代決定を試みています。その一方で、ナイフ形石器に瀬戸内技法を用いたものが多いことや、角錐状石器が多い点は、後期旧石器時代後半期の典型的な資料の特色です。こうしたことから、今回見つかった旧石器は後期旧石器時代後半期のもので、最終氷期の最も寒い頃すなわち2万〜2万3千年前項と考えられます。
縄文時代の石器遺物としては、縄文時代中期以前の石鏃(やじり:写真6右)やその未成品が50点ほど見つかっており、この地で石鏃を作っていたと考えられます。土器片も少量出土しています。旧石器〜縄文時代にかけての長い間、この地が人に利用されることの多い場所だったことを示す資料です。狩り場が近かったとも考えられます。また、石器が出土した地点のすぐ隣で、縄文時代前半の集石遺構がいくつか見つかりました(写真7・8)。直径2mほどの範囲で、拳大の焼けた石が出土しています。これらの石は、蒸し焼きや湯沸かしなど、調理に用いられた可能性があります。
写真7 縄文時代の集石遺構1
写真8 縄文時代の集石遺構2
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