甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第151次調査) 現地説明会資料

独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所
都城発掘調査部

※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

はじめに

甘樫丘は飛鳥川の西岸に位置する丘陵です。丘陵の東麓にはいくつかの谷地が入り込み、今回の調査地もその一つに当たります。1994年度に谷の入口付近で発掘調査がおこなわれ、7世紀中頃の焼土層を確認しました。また、2005年度の国営公園整備に先立つ試掘調査で7世紀の掘立柱建物群を確認し、『日本書紀』に記述のある蘇我氏の邸宅との関連が問題となりました。

2006年度にはじめて大規模な発掘調査がおこなわれ、7世紀前半の石垣と掘立柱建物、それを埋め立てる整地と建物群、炉跡、溝などを検出し、この谷が7世紀を通じて利用されていた状況を明らかにしました。 今回の調査地は2006年度の調査区と隣接します。調査の目的は2005年度の調査で確認した建物群の規模と年代を明らかにすること、谷の奥における建物群の広がりを把握することです。調査面積は950m2で、2007年11月12日から調査を開始し、2008年3月末現在も調査を続けています。

調査位置図
調査位置図

遺構の変遷

調査区内では掘立柱建物、塀、土坑、溝などを確認しました。遺構は3時期に分けられ、Ą期とŁ期の建物は大規模な整地の上に建てられています。

調査区全景(北東から)
写真

I期(7世紀前半)

建物1、建物2、建物3が相当します。建物1は5×3間の総柱建物です。北にL字形の溝を巡らしています。建物2は5×2間の掘立柱建物です。建物の東で焼土や炭が入る溝、南で7世紀中頃の土器を含む土坑2を確認しました。建物3は2006年度の調査で検出した5×2間の総柱建物で、西に塀4を伴います。建物3と塀4の柱穴は7世紀中頃の土器を含む土坑1に壊されています。なお、建物1と建物3は柱の数が違いますが、面積は同じ約40m2です。

建物1(北西から)
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II期(7世紀後半)

建物4、建物5、建物6が相当します。建物4は3×3間以上の掘立柱建物で、コ字形に巡る塀1が取り付きます。建物5と建物6はともに4×2間の掘立柱建物で、塀1によって囲まれています。塀1は建物4の廃絶後、塀2に造り替えられるので、Ł期はさらに細分が可能です。塀1の外側に位置する塀3もŁ期に相当する可能性があります。

建物5(南東から)
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III期(7世紀末頃)

溝1が相当します。溝1はコ字状に曲がり、配石遺構につながります。2006年度の調査では溝1の東で炉と建物を検出しましたが、今回の調査ではŁ期の建物が見つかりませんでした。

配石遺構(南東から)
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出土遺物

調査区内からは7世紀の土器が多量に出土しました。士坑1に含まれる土器は7世紀中頃の良好な一括資料で、建物群の年代を決める手がかりです。また、整地土には瓦もわずかに混入していました。金属製品には鉄斧の破片や鉄釘などがあります。

土坑1の土器出土状況(北東から)

出土土器

まとめ

今回の調査では、これまで部分的に検出した建物の規模を確定するとともに、年代を絞り込むことができました。Ą期の建物群は7世紀中頃には廃絶しており、それらが蘇我氏の邸宅と関わる可能性があります。 しかし、昨年度と今年度の調査区内ではĄ期の大型建物が見つかっていません。さらに谷の入口に近い部分の調査が重要性を増しました。

いっぽう、7世紀後半の建物群は区画塀の造り替えを経て、7世紀末頃に廃絶することが判明しました。その性格を明らかにすることも新たな課題です。今後も遺跡の全体像を解明する発掘調査が必要です。

遺構平面図
表紙写真:全景

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