独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所
都城発掘調査部
※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
平城宮には3つの中枢部があります。第1次大極殿院・朝堂院のある中央区、内裏・第二次大極殿・朝堂院からなる東区、そして東院地区です(図1)。中央区と東区の周囲には、官衙(役所)が配されていたと考えられています。これまでにも官衙がいくつか発掘調査されてきました。東区の南方には兵部省、式部省、神祇官(南方官衙地区)があり、宮の西辺には南北に長い馬寮が確認されています。中央区の北には推定大膳職、内裏の東には推定宮内省、造酒司などが発掘調査されました。しかし、中枢部とくらべると、官衙は不明な点が多くのこされています。
図1 平安宮内の構造と今回の調査位置(奈良時代後半)
そこで、奈良文化財研究所都城発掘調査部では昨年から東区と東院地区の間を調査する計画をたてました。この地区は官衙区域と推定されており、平城宮東部に位置することから東方官衙地区とよんでいます。この地区の基本的な状況を把握するために、狭い調査区を南北と東西にのばした調査方法を採用しています。今回は本計画の第2回目の調査となります。調査は2008 年1月11日より開始し、現在も継続中です。
東方官衙地区の北部、内裏の東側には現在遺構展示館として復原されている通称磚積(せんづみ)官衙があります。2007年1月から5月に実施した第406次調査ではこの官衙の南にあたる場所を調査し、基幹排水路SD2700をはさんで東西にならぶ2つの官衙区画を確認しました。このうち東側で発見された区画は東西51m、南北120m以上の規模をもつ築地塀の囲いがあり、その中に礎石建物が配置されていることがわかりました。今回は第406次調査地の南側を調査しています。南北96m、東西129m、総面積1314m2の調査区を設定しました(図2)。
図2 調査地周辺の遺構
今回の調査地における官衙区画、基幹排水路の存否と官衙区画内の建物配置の状況をあきらかにすることを目的としました。
発掘調査の結果、今回の調査地のほぼ中央には基幹排水路SD2700が南北に通り、これをはさんで東西にならぶ2つの官衙区画があることが分かりました。便宜上、東側の区画を東区画、西側の区画を西区画とします(図3)。
図3 遺構平面図
基幹排水路とは平城宮内の排水を集めて流す溝で、宮殿や官衙区画の外側を流れる施設です。
この区画は平城宮廃絶後の水田の造成により、当時の地面が大きく削り取られており、区画や建物の存在を示す遺構の状態はよくありません。
区画を示す築地塀はすでに残存していませんでした。ただし、基幹排水路を確認したことにより、東区画はこの3つの排水路に囲まれた内側に存在していたと推測できます。また、区画の西端は雨落溝の存在によっておおよその位置がわかります。以上の状況と昨年の北側の官衙区画から推算すると、東区画の南北は最大でも90mほど、昨年の官衙区画と同じ幅と仮定すると東西は51mと考えられます。
多量の土器、瓦、木製品、木簡などが出土しています。土器は土師器、須恵器、墨書土器があり、土坑1、土坑2から多く出土しています。瓦は建物4の北端や建物10、11の雨落溝付近に集中していました。また土坑からは鳳凰文や花文の鬼瓦が出土しています。木製品と木簡は土坑1から出土しています。木簡は現在調査中です。今後、官衙区画の性格を考える際の手掛かりが得られることが期待されます。
今回の調査で、東西に並列する2つの官衙区画があきらかになりました。いずれも東西幅が50mほどで、幅を見る限りほぼ同規模の区画が並んでいると推測できます。この幅は昨年の調査であきらかになった官衙区画の幅とも同様です。しかし、区画内の建物の様子には違いがみられました。東区画内はいずれも掘立柱の建物で、建物配置に顕著な規則性がみられず、少なくとも2度の建て替えがあったことがわかりました。一方、西区画は同規模の建物が東西対称に配置されており、いずれも総柱の礎石建物です。この建物は構造から高床式の倉庫であったと考えられます。こうした状況は2つの区画の機能がことなっていたことを予測させます。
西区画では遺構の状況からみて、複数の倉庫が南北に展開していたと考えられます。平安宮の建物配置を示した図には、朝堂院の東側に太政官、中務省、民部省が配置されています(図4)。このうち民部省は倉庫のみで区画を構成する廩院(りんいん)※を管轄しています。廩院とは米を貯蔵する倉庫群のことで、平安宮では120m四方の敷地を占めていました。今回発掘した西区画の位置と総柱建物の規模からみると、西区画は民部省廩院の可能性が考えられます。一方、東区画の様相は西区画と大きくことなり、全体像もあきらかになっていません。役所名の特定は発掘調査の進展や遺物の調査研究を待って判断したいと考えています。
南北調査区の南端で検出した東西大溝は、宮の北から流れてきた南北大溝2が南に抜けず東に折れていることを示唆すると同時に、この溝の南側に朝堂院東門から東にむかってのびる宮内通路を想定することが可能です。今後検討すべき課題のひとつとなります。
今回の調査成果は東方官衙地区における官衙の配置や官衙と通路の関係など、この地区全体の構造を解明する上で重要な資料を提供することができました。
※奈良時代における「廩院」の文字資料はありません。『続日本紀』天平17年(745)5月乙亥(18日)の条に平城宮の北側にある松林苑にあったと考えられる「松林倉廩」という記述がありますが、民部省の「廩院」とは別の施設のようです。
図4 平安宮区画配置図(『岩波日本史辞典』より)
|ページ先頭に戻る|