平城第429次 平城宮東方官衙地区(飛鳥藤原第151次調査) 現地説明会資料

独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所
都城発掘調査部

※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

1.はじめに

平城宮には3つの中枢部があります。第1次大極殿院・朝堂院のある中央区、内裏・第二次大極殿・朝堂院からなる東区、そして東院地区です(図1)。中央区と東区の周囲には、官衙(役所)が配されていたと考えられています。これまでにも官衙がいくつか発掘調査されてきました。東区の南方には兵部省、式部省、神祇官(南方官衙地区)があり、宮の西辺には南北に長い馬寮が確認されています。中央区の北には推定大膳職、内裏の東には推定宮内省、造酒司などが発掘調査されました。しかし、中枢部とくらべると、官衙は不明な点が多くのこされています。

図1 平安宮内の構造と今回の調査位置(奈良時代後半)
図1

そこで、奈良文化財研究所都城発掘調査部では昨年から東区と東院地区の間を調査する計画をたてました。この地区は官衙区域と推定されており、平城宮東部に位置することから東方官衙地区とよんでいます。この地区の基本的な状況を把握するために、狭い調査区を南北と東西にのばした調査方法を採用しています。今回は本計画の第2回目の調査となります。調査は2008 年1月11日より開始し、現在も継続中です。

2.調査の経緯

東方官衙地区の北部、内裏の東側には現在遺構展示館として復原されている通称磚積(せんづみ)官衙があります。2007年1月から5月に実施した第406次調査ではこの官衙の南にあたる場所を調査し、基幹排水路SD2700をはさんで東西にならぶ2つの官衙区画を確認しました。このうち東側で発見された区画は東西51m、南北120m以上の規模をもつ築地塀の囲いがあり、その中に礎石建物が配置されていることがわかりました。今回は第406次調査地の南側を調査しています。南北96m、東西129m、総面積1314m2の調査区を設定しました(図2)。

図2 調査地周辺の遺構
図2

3.調査の目的

今回の調査地における官衙区画、基幹排水路の存否と官衙区画内の建物配置の状況をあきらかにすることを目的としました。

4.調査の成果

発掘調査の結果、今回の調査地のほぼ中央には基幹排水路SD2700が南北に通り、これをはさんで東西にならぶ2つの官衙区画があることが分かりました。便宜上、東側の区画を東区画、西側の区画を西区画とします(図3)。

図3 遺構平面図
図3

(1)基幹排水路

基幹排水路とは平城宮内の排水を集めて流す溝で、宮殿や官衙区画の外側を流れる施設です。

南北大溝1
東西調査区の東端で検出した南北方向の大溝。溝の西側の縁にそって直径5cmほどの木杭が並んでおり、溝の縁が水流で崩れないよう保護していたと考えられます。以前に宮北方で検出した溝(SD3410)の延長部分にあたります。排水は平城宮の地形にそって北から南へ向かってながれています。
南北大溝2
東区画と西区画の間をながれる南北方向の大溝。幅4mほどで、平城宮の排水を南へ流す基幹排水路(SD2700)の延長部分です。
東西大溝
南北調査区の南端で検出した東西方向の大溝。幅4mほどで前述の南北大溝1と南北大溝2との間を東西につないでいると考えられ、地形からみて西から東へ流れていたと推測されます。

(2)東区画

区画の規模

この区画は平城宮廃絶後の水田の造成により、当時の地面が大きく削り取られており、区画や建物の存在を示す遺構の状態はよくありません。

区画を示す築地塀はすでに残存していませんでした。ただし、基幹排水路を確認したことにより、東区画はこの3つの排水路に囲まれた内側に存在していたと推測できます。また、区画の西端は雨落溝の存在によっておおよその位置がわかります。以上の状況と昨年の北側の官衙区画から推算すると、東区画の南北は最大でも90mほど、昨年の官衙区画と同じ幅と仮定すると東西は51mと考えられます。

区画内の建物

建物1
南北調査区の北辺で4つの柱穴を検出しました。柱間寸法は3m(10尺)です。いずれも穴を掘って柱を立てる掘立柱建物で、東西にのびる建物を想定しています。
建物2
建物1の南に位置する柱穴4基で、柱穴内に柱根がのこっています。柱間寸法は3m(10尺)、東西方向の建物と考えています。
建物3
南北調査区の中央に南北にならぶ10基の柱穴を検出しました。柱間寸法は3m(10尺)、南北9間の南北棟掘立柱建物が東に展開していると考えられます。
建物4
建物3の西側に南北にならぶ柱穴を2列検出しました。柱間寸法は3m(10尺)、南北7間、東西2間の南北棟の総柱建物と想定しています。
建物5・6
建物4の西に東西に並ぶ柱穴が南北に2列みつかりました。北側の列を建物5、南側の列を建物6とします。いずれも東西3間、柱間寸法3m(10尺)の建物が調査区外の北にのびるものと考えています。
建物7
建物5・6の西南で柱穴8基を検出しました。東西3間の掘立柱建物が南に続いており、柱穴には柱根がのこっています。
建物7の東に柱穴10基が東西に並んでいます。掘立柱の塀と考えられます。
建物8
南北調査区の東端、南北大溝1の西側で柱穴を5基検出しました。そのうち3基には柱根が残っています。これらも南へ展開する掘立柱の建物です。
土坑1
直径6mをこえる土坑で深さは不明です。その規模や性格は調査中です。
土坑2
土坑1より古い土坑で瓦や土器が多く出土しました。
建物9
土坑1・2の底で柱穴を検出しました。南北4間の掘立柱建物が西へ展開しています。柱間寸法は2.4m(8尺)です。

(3)西区画

区画の規模

東区画と同様、築地塀そのものは残存していませんでしたが、築地塀の存在をしめす雨落溝が検出されています。東西に並ぶ雨落溝の間に築地塀があったと仮定すると、塀と塀の間の距離(区画の東西幅)は51mほどになります。区画の南北の規模は不明です。

区画内の建物

建物10
東側の建物で、東西に6基ならぶ礎石据付穴列を3列検出しました。東西5間、南北2間以上の南北棟で総柱の礎石建物です。柱間寸法は東西3.6m(12尺)、南北3m(10尺)あります。穴の一部には礎石や根石が残存しています。建物の東西両脇には雨落溝が検出されました。
建物11
建物10の西側にあり、規模が建物10と同じ総柱の礎石建物です。一部礎石や根石が残存しており、雨落溝も検出しました。
礎石列
建物10の東雨落溝の東側に径50cm前後の礎石が2基みつかりました。柱間寸法は3m(10尺)あります。用途は不明です。
土坑3
建物11西側の雨落溝を壊している土坑で、土器や瓦が出土しています。

(4)区画外の遺構

建物12
東西調査区西端で柱穴4基を検出しました。柱穴の一部が築地塀の雨落溝に壊されていることから、西区画より古い時期の掘立柱建物です。

(5)出土遺物

多量の土器、瓦、木製品、木簡などが出土しています。土器は土師器、須恵器、墨書土器があり、土坑1、土坑2から多く出土しています。瓦は建物4の北端や建物10、11の雨落溝付近に集中していました。また土坑からは鳳凰文や花文の鬼瓦が出土しています。木製品と木簡は土坑1から出土しています。木簡は現在調査中です。今後、官衙区画の性格を考える際の手掛かりが得られることが期待されます。

5.おわりに

今回の調査で、東西に並列する2つの官衙区画があきらかになりました。いずれも東西幅が50mほどで、幅を見る限りほぼ同規模の区画が並んでいると推測できます。この幅は昨年の調査であきらかになった官衙区画の幅とも同様です。しかし、区画内の建物の様子には違いがみられました。東区画内はいずれも掘立柱の建物で、建物配置に顕著な規則性がみられず、少なくとも2度の建て替えがあったことがわかりました。一方、西区画は同規模の建物が東西対称に配置されており、いずれも総柱の礎石建物です。この建物は構造から高床式の倉庫であったと考えられます。こうした状況は2つの区画の機能がことなっていたことを予測させます。

西区画では遺構の状況からみて、複数の倉庫が南北に展開していたと考えられます。平安宮の建物配置を示した図には、朝堂院の東側に太政官、中務省、民部省が配置されています(図4)。このうち民部省は倉庫のみで区画を構成する廩院(りんいん)※を管轄しています。廩院とは米を貯蔵する倉庫群のことで、平安宮では120m四方の敷地を占めていました。今回発掘した西区画の位置と総柱建物の規模からみると、西区画は民部省廩院の可能性が考えられます。一方、東区画の様相は西区画と大きくことなり、全体像もあきらかになっていません。役所名の特定は発掘調査の進展や遺物の調査研究を待って判断したいと考えています。

南北調査区の南端で検出した東西大溝は、宮の北から流れてきた南北大溝2が南に抜けず東に折れていることを示唆すると同時に、この溝の南側に朝堂院東門から東にむかってのびる宮内通路を想定することが可能です。今後検討すべき課題のひとつとなります。

今回の調査成果は東方官衙地区における官衙の配置や官衙と通路の関係など、この地区全体の構造を解明する上で重要な資料を提供することができました。

※奈良時代における「廩院」の文字資料はありません。『続日本紀』天平17年(745)5月乙亥(18日)の条に平城宮の北側にある松林苑にあったと考えられる「松林倉廩」という記述がありますが、民部省の「廩院」とは別の施設のようです。

図4 平安宮区画配置図(『岩波日本史辞典』より)
図4

ページ先頭に戻る