※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
吹田操車場遺跡は、昭和42年に操車場の工事中に中世の遺物が出土したことで周知された遺跡で、千里丘陵の南縁部から沖積平野に位置します。財団法人大阪府文化財センターでは、平成10年度から吹田信号場基盤整備工事に伴う発掘調査を行ってきました。これまでの調査では、古墳時代後期の須恵器大甕の埋納遺構や古墳時代から奈良時代にかけての群衆土坑、飛鳥・奈良・平安時代の集落跡、耕作地等を確認しています。遺物では、白鳳時代の軒丸瓦や後期難波宮等で使用された瓦と同型式の瓦、奈良三彩の小壷、緑釉陶器、獣脚円面硯、弥生時代以前の石鏃等が出土しています。
今回は、平成19年7月から実施している発掘調査のうち、すでに終了したC9・導水路(東)・B5地区の成果を公開します。C9・導水路(東)地区では主に平安時代後半の集落跡、B5地区では古代以前と思われる自然地形や溝を検出しました。これらの遺構のすぐ上を操車場建設時の盛土が覆っていることから、明治以前の古い地表面は著しく削平されていると考えられます。
今回の調査では、平安時代後半の掘立柱建物・溝・土坑等の遺構を検出したことから、その当時、この周辺には集落が形成されていたことがわかりました。
見つかった遺構の大半はC9地区の南側に集中しています。中央から北側では後世の撹乱が著しいため、遺構はほとんど残っていないことがわかりました。遺構には柱穴が多く、複数の掘立柱建物が建てられていたようです。復元した建物の周辺には重なるような柱穴が見られることから、建て替えの行われた可能性があります。また、建物の周囲に落込みを検出した例もあり、区画溝のようなものと考えられます。
導水路(東)地区では、C9地区から続く溝以外に、西側で掘立柱建物の一部や土坑・溝を検出しました。 いずれの遺構の周辺からも、平安時代後半を中心とする黒色土器・土師器・緑釉陶器等の遺物が出土しています。中世以降の遺物が非常に少ないことから、以後は耕地化されたと考えられます。
B5地区では、古代以前の自然流路や溝以外に中近世の耕作地を検出しました。
明治18年の地形図
昭和7年の地形図
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