高麗寺跡第9次発掘調査 現地説明会資料

高麗寺跡第9次発掘調査現地説明会資料
木津川市教育委員会

所在地名
木津川市山城町上狛高麗寺・森ノ前地内
調査主体
木津川市教育委員会(教育長 久保三左男)
調査契機
史跡整備に伴う発掘調査(平成20年度国庫補助事業)
調査指導
高麗寺跡史跡整備委員会(会長 上原真人)
調査期間
平成20年10月15日〜平成21年2月20日(予定)
調査面積
約400m2

1.調査の目的と経過

今回の発掘調査は、高麗寺跡(飛鳥時代創建,国史跡)の史跡整備に伴なう第III期調査の4年目にあたり、昭和59〜63年(1984〜88)度に旧山城町が実施した寺域の範囲確認調査(第II期調査)から数えて、高麗寺跡の第9次調査となります。なお、昭和13年(1938)にも2度の発掘調査(第I期調査が行われ、その成果を受けて昭和15年(1940)8月30日、回廊に囲まれた主要堂塔を含む伽藍の一部が国の史跡となりました。

この調査では、高麗寺跡の史跡整備を行う上での基礎資料の収集を目的としており、昨年の第8次調査で検出した南門跡に続く南辺築地塀の西辺・東辺付近,講堂跡と北・西回廊跡の確認調査を実施しています。

2.調査の概要

高麗寺の伽藍整備は7世紀後半になされますが、創建は古く7世紀初頭にさかのぼります。伽藍の主要堂塔は、東に塔,西に金堂を並置し、それを囲む回廊が北で講堂,南で中門に接続するいわゆる法起寺式の伽藍配置となっています。第6次調査と今回の第9次調査では、北辺回廊基壇外側から南辺回廊基壇外側までの規模がほぼ200尺(0.297m/尺,唐尺)で設計されていることがわかり、昨年の第8次調査とこの第9次調査で確定した回廊の東西規模208尺とあわせ、整然と計画された高麗寺の伽藍設計を知ることとなりました。また、第7・8・9次調査で継続実施した南辺築地塀の調査では、南門跡を検出することによって南門・中門・金堂が一直線に並ぶ特異な法起寺式伽藍の配置を明らかにし、この築地塀が確認できる最古の遺例であることが判明しました。

今回の調査では、史跡指定地内での確認できる最東・西端まで南辺築地塀の存在を明らかにしましたが、西辺付近で築地塀を分断する上肩幅約3m・深さ約1.7mのV字南北溝を検出し、ここから西側は築地塀ではなく上土塀のような構造となっていることを確認しました。その位置は、西辺回廊の延長線より西側に平行し、境内内の排水施設と考えられ、高麗寺伽藍整備当初前から廃絶後(鎌倉時代初頭)まで機能していたようです。また、今回は、講堂跡基壇西辺から西回廊に続く北回廊を調査しており、石積外装をもつ幅5.4m(18尺)の回廊基壇では外側柱筋に沿って壁の地覆が施されていました。また、北回廊・西回廊内側の瓦落を検出しており、回廊基壇内側角の位置をほぼ確認することができました。

3.調査成果のまとめと課題

飛鳥時代、わが国初期寺院の様相解明への糸口

高麗寺の伽藍整備は7世紀中頃(660年代)になされますが、その創建は古く7世紀初頭(610年代)にさかのぼります。この時期(飛鳥時代)、七堂伽藍を完備した寺院は、全国に飛鳥寺以外なく、一・二堂程度で構成された捨宅寺院,草堂段階であったと考えられます。『日本書紀』推古天皇32年(624)にはすでに全国の寺46所を数えたとしていますが、この頃創建されたことが出土瓦等で確認されている寺においても、本格的に伽藍が整備され寺容が整うのは、7世紀中葉以降と考えられるものがほとんどです。また、これら寺の所在地はほぼ畿内に限定され、現在30ケ所程度の候補地があげられているに過ぎません。なお、『扶桑略記』によると持統天皇6年(692)天下の諸寺は545ヶ寺に達しており、推古32年から約70年で12倍に増加したことになります。

高麗寺においては、南門・中門・金堂が一直線に並ぶ配置を昨年度第8次調査で確認しており、創建期の高麗寺の状況を反映したものと考えられます。今回の調査では、白鳳期伽藍の外郭施設である南辺築地塀が不自然に途切れる大規模な南北V字溝の検出により、ここが飛鳥期伽藍の西辺外郭施設であった可能性を示したのです。なお、昨年度調査においては、今回検出した南北溝と南門を挟んで対称の位置において、飛鳥期軒瓦がほぼ完全な状態で出土しており、東西に50m程度の飛鳥創建期伽藍の範囲を予想することができます。いずれにしても、実態がほとんど知られていないわが国の飛鳥期寺院の実態解明の糸口であることに誤りはありません。

三重に荘厳された講堂基壇は、中金堂から講堂への変化を川原寺式から法起寺式伽藍配置への変化として示す好例

高麗寺の伽藍整備は、天智朝の川原寺創建軒瓦との同笵品を用いて7世紀中頃に行われますが、この瓦笵はその後移動して大津宮周辺の寺院に使用されます。したがって、高麗寺は、川原寺式伽藍配置から法起寺式伽藍配置へ変化するその初例と考えられます。この点に関しては、以前から講堂基壇が金堂基壇のほぼ相似形となる正方形プランであることから論じられてきました。しかし、今回の発掘調査では、講堂基壇が特異な三重構造であることが明らかとなり、その華美に荘厳された基壇の様相からその建物の格式の高さを示すことで、伽藍配置の変遷を証明できたのです。

高麗寺の塔・金堂・講堂基壇の外装には、瓦積が用いられています。塔・金堂では地覆石を用いずに平瓦を平穏にし、その周囲には5.5尺(1.65m)幅の石敷が巡ります。講堂では地覆石を用いて瓦を平積にし、その下段周囲を幅2.5尺(0.75m)×高さ15cm程度の外縁を玉石で囲んだ土壇が巡り、さらにその周りを石敷が巡る三重構造となります。講堂基壇は、塔・金堂に比べ高さは低いものの、外装の入念さにおいて中金堂からの格式の高さを跡付けています。

発掘調査図

サイト管理者注:赤い枠が今回の現説公開トレンチです。

塔・金堂跡基壇実測図

講堂跡基壇実測図

講堂の二重基壇

高麗寺講堂基壇外装三重構造

瓦積基壇の諸形式(田辺征夫「古代寺院の基壇」より)

主要寺院の伽藍配置

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