新上小阪遺跡(08−1)

(財)大阪府文化財センター

説明文

調査に至る経緯と経過

今回の調査は、大阪府営東大阪新上小阪住宅の建て替え工事に先立つものです。

この遺跡は、以前に実施された第1期工事以前には、その存在が知られていませんでしたが、周辺に山賀遺跡、上小阪遺跡、小若江遺跡など多くの遺跡が広がっていることから、工事に先立って平成11年、大阪府教育委員会による遺跡の試掘調査が実施されました。その結果、弥生時代から中世の遺跡が発見され、それ以来「新上小阪遺跡」として知られることとなりました。

平成13年度と平成18・19年度には、第1期・第2期工事に伴って高層住宅の基礎部分や貯留槽部についての発掘調査が行なわれ、弥生時代から中世にいたる遺構が数多<確認されております。その成果の一部については、以前に現地公開を実施したところです。見学された方も多いのではないでしょうか。

今回の調査対象地は、第1期・第2期工事の道路を挟んで南側の、新たに建設される高層住宅の基礎にあたる部分と、雨水をためる地下貯留槽部にあたります。調査期間は平成20年9月から平成21年9月までの予定です。調査面積は約2900m2ありますが、調査はそれを1区から4区に4分割して実施しており、既に1区と3区が完了しています。本日見学していただく場所は、このうちの2区になります。

これまでの調査区と今回の調査区(S=1/2500)
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調査区と写真

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調査の成果

皆さんが今立っている現地表面の高さは、標高約4.3mになります。そこから1.3〜1.5mほど掘り下げたところから、奈良時代から鎌倉時代の遺構を発見しました。掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)と呼ばれる地面に穴を掘って柱を据える構造の建物を少なくとも3棟確認しており、出土遺物や柱穴の形からこれらは奈良時代(8世紀)の建物であったと考えています。土坑(どこう)と呼んでいる大きな穴からは、平安時代(10世紀)や鎌倉時代(13世紀)の土器が見つかるものもあり、いくつもの時代の遺構が重なり合っていることがわかります。また、上の写真にもあるようなたくさんの細い溝については、遺構の重なり具合からもっとも新しい時代のものであることが判明しており、おそらく鎌倉時代の耕作によってできた溝であると考えています。

出土遺物の中には、奈良時代の硯(すずり)や瓦(かわら)などが含まれていることから、周辺にはこの時期の役所などの重要な施設、あるいはお寺などが存在していた可能性も考えられます。

そこからさらに0.3〜0.8mほど掘り下げたところからは、弥生時代中期後半から古墳時代の遺構が見つかりました。

弥生時代中期後半(紀元前約1世紀頃)の遺構には、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる、平面形が四角く、周りに溝をめぐらしたお墓が3基と、いく筋もの溝があります。この方形周溝墓の周清からは、お供えとして使われたと考えられる完全な形に近い土器が多数見つかっています。今回の調査区で見つかった方形周溝墓の上面からは、子供の遺体を納めたと考えられる大型の土器(土器棺(どきかん))も発見されています。第1期・第2期の調査ではこのような方形周溝墓が見つかっていないことから、今回の調査地側にこの時期の墓域が広がっていたと推測できます。

古墳時代(3世紀〜6世紀)の遺構は、弥生時代のものに比べ数は少ないですが、溝や土坑などが確認されています。今回の調査区内からは、この時代の土器がまとまって見つかっている場所があります。そこは建物跡になるだろうと考えています。

奈良時代から鎌倉時代の遺構(2区)
掘立柱建物やたくさんの溝が見られます。
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掘立柱建物
建物の内側にも柱を立てて、がんじょうな作りにしています。倉庫のような建物だったのかもしれません。
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