平城宮第一次大極殿院内庭広場(平城第454次調査)

独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部

1.調査の経緯

調査に至る経緯と経過

第一次大極殿院の発掘調査は、昭和34年度(1959)の第2次調査より開始し、区画の東半分については、すでに奈文研学報『平城宮発掘調査報告XI』として報告している。その後、区画の西側の回廊部分を中心に調査を継続し、昨年度で回廊部分の調査を終了した。本年度は、築地回廊内庭部の状況確認を目的として、東半で未発掘であった区画内部の南東隅部分の調査を計画した。

調査区は、北を第27次調査区(昭和40年度・1965)、東を第41次調査区(昭和47年度・1972)、西を第77次調査区(昭和48年度・1973)、南を第431次調査区(平成20年度・2008)に囲まれており、調査面積は約1558m2(南北54m、東西29.5m)である。調査は4月13日より開始し、現在継続中である。

図1奈良時代前半の平城宮と今回の調査区
(左:井上和人「日本古代都城制の研究」吉川弘文館をもとに作成)

2.第一次大極殿院地区の変遷

これまでの成果より、第一次大極殿院地区の遭構はI〜III期の大きく3時期に区分される。

I期はさらに4時期に分けられる。以下、各時期について説明する。

(1)I期:
平城宮造営当初より、恭仁宮から遷都するまで。奈良時代前半。
I−1期
平城宮造営当初。区画の周囲を複廊の築地回廊で囲み、区画内は、北約3分の1で段差を設け、壇上に大極殿と後段を造る。
I−2期
南面回廊を改修し、東西に楼蘭を増築する。
I−3期
恭仁京遷都時。大極殿と東面・西面回廊を解体し、恭仁京に移築する。東西両面は掘立柱塀が新たに造られる。
I−4期
遷都後。掘立柱塀を解体し、東面・西面回廊が再建される。
(2)II期
奈良時代後半。区画の南北幅を狭め内裏と同規模の区画とし、周囲は複廊の築地回廊で区画する。東西の回廊はI期の基壇を踏襲する。区画の内部は、中央に段差を設け、壇上には多数の掘立桂建物を建てる。称徳天皇の西宮に比定。
(3)III期
平安時代初頭。II期の区画を踏襲し、回廊は基壇幅を狭め、築地塀のみとする。区画内部は、新たに建物を造営する。平城上皇の宮殿に比定される。

図2 第一次大極殿院地区変遷図

3.主な検出遺構

下層礫敷
平城宮造営当初に第一次大極殿院内庭部に敷いた礫。造営時の整地土の上に、径3〜10cmの礫を敷き、舗装する。北から南になだらかに頼斜する。
中層礫敷
I−2期の東西楼閣増築にともない楼閣周辺に敷かれた礫。下層礫敷の上に土を盛り、その上に径5〜15cmの礫を敷く。東西溝より南では徐々に土を厚く積み、地面の傾斜を変え雨水が後述の東西溝に流れ込むようにしている。
上層礫敷
中層礫敷の上に砂を敷き、その上に径1〜3cmの小礫を敷く。この礫敷の上面で、回廊に使用されていた瓦が出土しており、礫敷の施工が南面回廊解体以前であることが分かる。
東西溝
上層礫敷面で検出した幅2mの東西溝。2時期ある。深さは約35cmで、埋土から多量の瓦が出土した。周辺の遺構面よりも低い位置に作られているので、北側の内庭広場と南側の南面回廊双方からの排水を担っていたと考えられる。この溝は東西の調査区(第41・77次)でも検出しており、東に流れ、東面回廊内側の西雨落溝に合流し、暗渠で区画外へ排水していたことが判明している。
土坑
調査区中央で検出した東西約22m、南北約17mの長方形の落込み状の遺構。深さは約20cm。埋土に多量の礫と砂が混じる。上層礫東面を掘り込んでおり、水がたまったような痕跡はない。西側の対称位置でも同様の遺構が認められており、東西対称に計画された可能性が高いが、遺構の性格は不明。
東西塀
調査区の北側で検出した掘立柱塀。径60cmの柱穴5基を確認した。柱間寸法は4.5〜5.4mと不揃い。抜取穴には、瓦や口專が詰まっている。第77次粛査でもその延長部分を確認しており、II期南面回廊より約49m南に位置する。柱穴が小振りで柱間寸法も広いため、仮設の塀であろう。上層礫敷面で検出。
東面築地回廊足場穴
第41次調査区との重複部分で再検出した。径40cmの柱穴が南北に並ぶ。いくつかは重複しており、2時期分とみられる。それぞれ東面築地回廊の建設と解体にともなうものであろう。

図3 第454次調査遺構平面図 1:250

図4 第一次大極殿院調査区遺構模式図

4.出土遺物/5.まとめ

4.出土遺物

調査区中央付近の包含層より乾元重宝(かんげんじゅうほう)(唐銭・758年発行)が1点出土した。そのほか、軒瓦、せん、隅木蓋瓦、奈良時代の須恵器・土師器、古墳時代の埴輪片などが出土した。

5.まとめ

今回の調査の成果は以下のとおりである。

  1. 第一次大極殿院広場の礫敷の変遷を明らかにし、特に中層礫敷の範囲を面的に確認した。また、造営当初は北から南面回廊まで傾斜していた地表面が、東西楼閣の増築にともない回廊北側の東西溝へ排水するように変更されていたことが改めて確認された。恭仁京より遷都した後は、区画内部の舗装を径の小さな礫敷に敷きなおしている。
  2. 東西対称に設けられたとみられる、長方形の土坑を確認した。

平城宮第一次大極殿院関係年表

 【第一次大極殿院】I期
710(和銅3)3/10平城京に遷都。大極殿は未完成(南面回廊整地土出土木簡)この間に藤原宮大極殿を平城宮に移築。
715(霊亀1)1/1大極殿において元日朝賀
9/2大極殿において元正天皇が即位
717(養老1)4/25西朝において大隅・薩摩国の隼人の風俗・歌舞を見る
719(養老3)1/2大極殿において元日朝賀
724(神亀1)1/2大極殿において元日朝賀
2/4大極殿において聖武天皇が即位
727(神亀4)1/2大極殿において元日朝賀
728(神亀5)1/3大極殿において元日朝賀
729(天平1)3/4大極殿において叙位
6/24大極殿閣門において隼人の風俗・歌舞を見る
8/5大極殿において天平改元の詔、大赦、叙位
730(天平2)1/2大極殿において元日朝賀
732(天平4)1/1大極殿において元日朝賀。天皇が初めて冕服を着る
735(天平7)8/8大極殿において大隅・薩摩の隼人の朝貢を受ける
736(天平8)1/17南楼において群臣に踏歌節の宴会を催す。この頃までに南面回廊に東西の楼閣を増設(SD3715出土木簡
737(天平9)10/26大極殿において金光明最勝王経講説
740(天平12)1/1大極殿において元日朝賀
1/17大極殿南門で大射を見る
12/15恭仁京に遷都。その際大極殿と歩廊を恭仁宮に移築
753(天平勝宝5) この頃大極殿院南面の楼閣を解体か(東西楼出土木簡)
 【西宮】II期
765(天平神護1)1/1西宮前殿で元日朝賀
767(神護景雲1)8/8西宮寝殿で斎会
768(神護景雲2)11/22新嘗祭の豊楽を西宮前殿に設ける
768(神護景雲3)1/3西宮前殿で道鏡が拝賀
770(宝亀1)8/4西宮寝殿で称徳天皇死去
 【平城上皇の西宮】III期
784(延暦3)11/11長岡京に遷都
794(延暦13)10/22平安京に遷都
809(大同4)11/5平城旧都などで平城上皇の宮地を占定(類聚国史)
11/12藤原仲成らを派遣して平城宮を造営(日本紀略)
12/4平城上皇平城に行幸。宮殿未完成のため、右大臣大中臣清麻呂の家を御在所とする(日本紀略)
810(弘仁1)9平城上皇平城遷都を図るが失敗し剃髪。以後も平城宮に住む
824(天長1)7/7平城上皇死去(日本紀略)
825(天長2)11/23平城上皇の親王らに平城西宮の管理・居住を認める(類聚符宣抄)

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