長岡宮第二次内裏「東宮」地区東脇殿の調査

(財)向日市埋蔵文化財センター

説明文

所在京都府向日市鶏冠井(かいで)町東井戸(ひがしいど)51-4
調査期間2009(平成21)年6月23日〜8月20日予定
調査所管向日市教育委員会
調査期間財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広)

1 はじめに

長岡京の内裏

天皇の居所である内裏は長岡京においては10年の間に二度の移転が行われ、3箇所に造営されていました。文献史料によれば桓武天皇は延暦8(789)年2月27日、「西宮」より「東宮」に遷御し(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)、延暦12(793)年1月21日、宮を解体するために「東院(とういん)」へ遷御(せんぎょ)した(『日本紀略』)と伝えられています。現在までに発掘調査で確認されている内裏は「東宮」と「東院」であり、「西宮」の所在についてはまだ確定していません。

「東宮」の調査成果

第二次内裏である「東宮」は昭和41(1966)年に発見され、これまでに32次に及ぶ調査が行われています。築地回廊(ついじかいろう)で囲まれた内郭は一辺約159m四方の規模を有します。平城宮では東西178m、南北187m、後期難波宮が東西179m(南北値不明)、平安宮では東西約170m、南北280mですから、他の都城と比べると長岡宮「東宮」は正方形を呈してやや規模が小さかったとみられます。内部からは正殿をはじめ槍皮もしくは板葺きの掘立柱建物が8棟、掘立柱塀1条などが確認されています。平安宮「紫宸殿(ししんでん)」に相当する正殿は身舎の規模が桁行9間、梁間3間で、四面には廂を設けますが各面の隅を欠く構造となっています。正殿の北側には天皇の後宮が展開していたと考えられておりそこで確認された5棟の建物配置には桓武天皇が即位後2年半を居所とした平城宮内裏から引き継ぎ平安宮内裏へとつながる新旧ふたつの要素が備わっており、内裏構造の漸移的変化を窺うことができます。

今回の調査

調査地は標高約22mの段丘低位面に立地し、正殿の南東約20m付近に位置します。後期難波宮や桓武朝の平城宮内裏では正殿地区を区画する掘立柱塀(東垣)が通過し、また、平安宮内裏の復原では東第二脇殿である「春興殿(しゅんこうでん)が存在する場所に相当します。このため調査では正殿地区を区画する塀や脇殿の確認に期待が寄せられました。

2 調査の成果

基本層序

調査地に遺存する旧来の堆積土の基本構成は盛土以下6層に区分されます。第1層は現代の耕作土、第2層は近世遺物包含層、第3層は平安時代整地層、第4層は長岡京期内裏造営関連堆積層、第5層弥生時代遺物包含層、第6層段丘構成層になります。

検出遺構

確認された遺構は内裏関連遺構として東脇殿、南面築地回廊などがありますが、江戸時代の液状遺構SX44、土壌SK32、土壌状遺構SX21・31・35、くぼ地SX36・40などによって改変が著しい状況です。ここでは内裏関連遺構を中心に説明を行います。

〔東脇殿SB47203〕

基壇を備えた東西棟の掘立柱建物で、その東端にあたる桁行(東西)3間以上、梁間(南北)2間分を確認しました。基壇(きだん)の出は柱心から東側へ約2.1m(7尺)、南側へ約2.4m(9尺)になります。柱掘方は一辺1.2m四方の規模を有しています。東妻側の棟持柱だけは東西1.6m、南北1.3m、深さ0.8mあり、かなり大きくつくられています。柱間は桁行と梁間がともに3.0m(10尺)等間になります。北側には廂(ひさし)がつく可能性があります。建物の周囲には凝灰岩の縁石を敷設した外装が伴い、その抜取痕跡が溝状にめぐります。この内側には基壇の構築土が、また、外側には化粧土が施されています。柱は全て抜き取られています。その抜取穴は基壇土の上面から掘り込まれており、柱掘方とは検出面が異なります。抜取穴は掘削した土をそのままもどさずに、精良な明黄褐色粘質土をもちいて埋められています。基壇縁石の抜取痕跡も同じ土で埋まっています。これらの検出面の直上にはにぶいオリーブ色の精良な粘質土が約10〜20cmの厚みで堆積しています。遺物は少ないのですが平安時代前期の緑釉陶器皿が出土しており、その時期の整地土である可能性が考えられます。

造営方法

建物の構築にあたっては、南東へ勾配を持つ地形を造成して弥生時代後期の遺物包含層(内裏下層遺跡)の上に盛土(整地土)が施され、平坦な面を築いたのち柱穴が掘られています。柱を据え置き、そのまわりに裏込土が充填されて柱穴を埋め立てます。基壇外装の縁石を設置し、その内側に拳大の礫を多く含む明橙茶色礫質土の基壇構築土が約20〜30cmの厚さで建物の下部とその周縁に施されています。柱掘方P1だけは裏込土に基壇土が使われています。基壇の外側へは精良な明黄橙色粘質土が施され、建物周辺の地盤を整備しています。磯もしくは瓦による舗装はなかったとみられます。なお、雨落溝については基壇縁を直接護岸とする構造になっていたかそれ自体つくられていなかった可能性があります。

基壇の高さ

掘立柱建物に伴う基壇であり、建物の格の高さを荘厳にあらわすために見栄えよくしつらえた程度と考えれば、縁石は一段程度でその内側に化粧土を積み足して仕上げられた極めて低い基壇に復原することができます。一方で、柱と基壇外装の抜取穴を埋め戻す土や平安時代の整地土を基壌土に由来すると見るならばかなりの高さを復原することができます。その場合、東脇殿の解体時には基壇の切り崩しは一部で平安時代前期まで基壇の高まりは残りそれをならして整地が行われたと想定されます。

〔東脇殿縁石抜取痕跡SX47202・06〕

脇殿基底部の外装にもちいられた凝灰岩縁石の抜取痕跡で、南側柱列の芯から約2.5m、東側柱列から1.7mのところに布掘りの溝が設けられています。南面抜取痕跡SX45702は幅0.8〜1.3m、深さ0.2mで抜取によって変形を受けています。しかし、底部の断面形状は箱形をしており縁石が置かれていた痕跡をとどめています。一方、東面抜取痕跡SX45706は幅0.55m、深さ0.2mで平面形が直線的な形状を呈しており、大きな掘り込みを設けずに抜取が行なわれていたとみられます。構内からは凝灰岩の細片と土器の細片が少量含まれていました。

〔南面築地回廊北雨落溝SD47204〕

内裏南端を東西に貫流する基幹排水路を兼ねた築地回廊の雨落溝で、幅約1.8m、深さ0.6mの規模を有し、総延長約20m分を検出しました。断面は箱形をしており、溝底面の高さから東へ排水していたことがわかります。埋土の上層は平安時代前期の整地土とよく似ており、その頃まで埋まりきらずに機能していた可能性があります。瓦や須恵器が多数出土しました。

〔南面築地回廊基壇縁石抜取痕跡SX47205〕

調査区南端で凝灰岩や瓦の細片を多数含む基壇外装の地覆石抜取痕跡を確認しました。

〔瓦落ちSX47201〕

雨落溝から約1m北側で幅1.5m、東西6mにわたって検出されました。南面回廊に葺かれていた瓦が廃棄されたものと思われます。軒丸瓦1点と多数の平丸瓦が確認されました。

3 調査の意義

①脇殿の存在を明らかにし、その規模と構造が判明した

東脇殿は基壇を備えた東西棟の掘立柱建物で、南側の基壇の出と同じ規模で北側に基壇縁石の抜取痕跡が確認されなかったことから、北に廂がつく建物であった可能性が高いものと思われます。内裏内で確認された建物のなかで廂の出が判明している例として、17尺の広廂をもつ正殿や15尺を有する北東(9)の殿舎2棟、11尺の北西殿舎1棟が知られています。このことから東脇殿については15尺はあったものと思われます。ところで東脇殿の身舎は桁行の規模をどのように復原することができるでしょうか。桓武朝の平城宮内裏では南北棟の廂を持たない桁行9間、梁間2間の脇殿が知られています。長岡京東院でも南北棟の東西両面廂付の桁行9間建物が確認されています。平安宮内裏では宜陽殿(きようでん)が9間建物、春興殿が7間建物であったことが知られています。これらを参考にして、長岡宮内裏の前庭部の空間配置を検討してみると東西9間では正殿の前方を遮る形になり、前庭部が狭くなるため7間までにおさめて考えるのが妥当かと思われます。以上のことから、東脇殿は桁行7間(約21m)、梁間2間(約6m)の身舎(しんしゃ)に15尺(4.5m)の廂がつく建物に復原することが可能です。建物の規模から想定される基壇の規模は東西25.2m(84尺)、南北15.9m(53尺)になります。

②脇殿構築の技術系譜がわかった

脇殿の基礎構造に見られる構築方法は長岡京ではほかに内裏正殿でみることができます。他の都城でも同様な構築方法を採る建物は、飛鳥浄御原宮内郭北区画南の正殿、平城宮第二次朝堂院下層朝堂建物において確認することができます。宮殿の中枢施設のなかでも特に格の高い建物に限られた工法と考えられます。平安宮になると宮殿内はほとんどが礎石建物に転換するため、伝統的な掘立柱建物による宮殿建築の最後の事例となります。

③正殿地区の建物配置が明らかになった

今回確認された脇殿の北側には桁行9間規模の南北棟建物が占有できる空間が十分に備わっており、さらにもう一棟存在した可能性は高いものと思われます。南面回廊に隣接して棟方位を東西とする脇殿の配置形態は正殿地区の内裏における占有スペースに規制されて、南北に2棟並列することができず、一方を東西に向けなければ配置できなかったために生じた状況であったと考えられます。正殿地区の脇殿は正殿を中心に左右対称の配置をとっていたと考えられ、東西各2棟から成る脇殿が正殿をはさんでコの字形に配置して、正殿地区を形成していたと考えられます。ところで、平城宮内裏や後期難波宮では正殿地区を掘立柱の塀によって区画しています。このような遮蔽施設は「東宮」にはつくられていなかったと考えられます。というのも、東西棟の西脇殿から西側へ約12mの距離をおいて宮第40・50次調査で確認された桁行7間、梁間2間の南北棟建物があり、両建物の間に正殿地区を区画する掘立柱建物塀の存在が見込まれましたが、宮第40次調査地点では想定位置にそのような遺構が確認されていないからです。平安宮内裏のように脇殿を配置させて空間が遮蔽されていたと思われます。

脇殿の配置計画については内裏正殿の身舎南端から脇殿の身舎北端まで100尺、内裏の中心から身舎西端まで60尺、南面回廊芯から身舎南端まで40尺の位置に設定されています。

④脇殿の機能に朝堂としての要素を見いだした

平安宮の脇殿は平安時代中後期の文献史料を通じて御物や武器などをおさめた収納庫であり、その一郭に臣下の参集する場所(宜陽殿西廂の議所)が設けられていたことがわかっています。長岡宮では天皇の日常政務の場が大極殿から内裏へ移り両者が分離した配置はそのことを端的にあらわしています。今回発見された脇殿から復原される正殿地区の建物配置は、内裏での朝政が確立した当初にあたりそれが平安宮で定着する在り方へどのように推移したかを解明する糸口を有しているといえます。脇殿4棟の配置は朝堂院の配置に通じており、朝堂としての機能が第一義におかれた段階の形態であったと考えることもできます。

図1 平城宮と後期難波宮の内裏の位置

図2 長岡宮内裏の位置(1:5000)

図3 調査地遺構配置図

図4 調査地断面模式図

図5 第二次内裏「東宮」遺構配置図

図6 脇殿の配置

(1)平城宮内裏(桓武朝)

奈文研1991『平城宮発掘調査報告XIII』をもとに作成

(2)長岡宮第二次内裏「東宮」(復元想定)

(3)長岡京左京「東院

(4)平安宮内裏

考古学協会1994『平安京提要』をもとに作成

長岡宮内裏関係資料

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