纏向遺跡第166次調査

平成21年11月14日・15日
桜井市教育委員会

説明文/図

1.はじめに

この度、桜井市教育委員会では桜井市大字辻63−1番地において纏向遺跡の範囲確認調査を実施しました。この調査は平成20年度から着手しました範囲確認調査の一つであります。

調査にあたりましては今回も土地所有者や地元関係者の方々から多大なご協力をいただきました。この場を借りて記して御礼申し上げます。

さて、今回の調査地は昭和53年度と昨年度に発掘調査を実施し、東西4.8m×南北1.3m以上の建物Aや一辺5.2m×4.8mの建物B、遺構の性格は不明ですが、建物あるいは柵の可能性が考えられた3基の柱穴で構成された南北6m以上の規模を持つ柱列G、建物Bを囲む柵列などが確認された纏向遺跡第162次調査地(辻64−1番地)の東隣接地にあたります。

第166次調査は第162次調査で検出された遺構群より東側の遺構の様子を解明するために実施されたもので、調査期間は平成21年9月1日〜平成21年11月30日を予定しています。なお、現時点での調査面積は約390m2となります。

2.調査地の位置と環境

調査地は標高75m前後の東側から派生する扇状地上の微高地にあたります(図1)。この微高地は太田北微高地と呼ばれるもので、微高地の南北には旧河道が流れていた事が判明しており東西に長く南北に存在する谷部分より約2m高い地形を形成しています。周辺は纏向遺跡内でも比較的古い段階(3世紀前半・庄内式期)の遺構が密集して分布する地域であり、過去に行われた調査においても庄内式期を中心とした多くの遺構が確認されています。

図1 調査地位置図(1/2000)

3.検出された遺構

今回の調査では第20・162次調査の調査成果を受けて上層では3世紀後半の遺構面となる包含層III上面と、包含層IIIの下部において確認検出された3世紀前半の遺構面となる地山及び整地層上面の2面において調査を行う予定でしたが、166次調査区内には包含層IIIが部分的にしか存在しなかったため上層遺構面の調査を断念し、地山及び整地土上面での調査を実施することとなりました。

なお、現時点では162次調査地と同様に整地層より下部にも下層遺構に先行する遺構が存在することが判明していますが、これについては調査途中であり、ここでは下層遺構面の遺構の状祝について見てゆくこととします(図2)。

図2 今回の調査と第20次・第162次調査の遺構配置図(1/200)

遺構面の状況
3世範前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地山)・黄褐色粘質土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。調査区の東部、方形区画溝の周辺から南にかけては本来調査区内では最も地形の高い地点に位置していたものとみられ、遺構面には黄褐色粘質土の地山が一部露呈しています。
建物C
調査区西端部において検出された建物遺構で昨年度の調査で柱列Gとしたもので、建物Bとの距離は5.2mあります。この建物は東西面南端の両柱穴が失われているため正確な規模は不明ですが南北の両近接棟持柱が検出されており、3間×2間(南北約8m、東西5.3m)の規模を持つものであることが判明しています。
建物D
調査区東半部において検出された南北4間(19.2m)×東西2間(6.2m)以上の建物遺構です。本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと考えていますので、南北長19.2m×東西長12.4mの規模に復元しています。なお、この復元案による建物Cとの距離は6.4mです。

柱穴の平面プランは一辺1m角のものから1m×l.7mのものなど大きくばらつきがありますが、すべてが方形・もしくは長方形のプランを持っていました。柱穴の深さは15cm〜70cmとばらつきがありましたが、これらは後世に一定の削平を受けたものと考えており、多くは残存する深さ15〜30cm前後のものです。

また、柱材は総て抜き取りが行われ、柱穴内には残っていませんでしたが残された柱の痕跡からその太さは32cm前後のものと推定されます。主柱の柱間は南北間で4.8m前後、東西間で3.1m前後になると考えていますが、南北の主柱穴間のほぼ中央には径40cm前後、柱の太さ約15cmの円形柱穴が検出されており、建物の床を支える束柱であった可能性が高いと考えています。

4.遺構の時期

各遺構の所属時期については調査途中の現時点では土器資料の整理が終了していないため、厳密な時期を導き出すのは困難な状況にあります。しかしながら、これまでに得られた知見では整地土及び建物C・Dの構築時期は3世紀前半の庄内式期古相段階、そしてその廃絶は建物の柱穴を切る第162次調査のSD−2001(庄内3式期)やSM−1001・SD−1007(庄内3式〜布留0式期)との切り合い関係から3世紀中頃(庄内3式期)を含めてそれ以前と考えています。

5.まとめ

今回の調査では第162次調査でその一部が確認されていた建物Cの全容と、その東側に展開する建物Dの構造について様々な新しい知見を得ることができました。これらの知見を順に挙げてみると、

  1. 第162次調査で検出されている柱列(柵)の内側に、より規模の大きな建物が複数棟存在することが判明しました。これまでの調査によって柱列(柵)で囲まれた範囲は纏向遺跡の居館域の内郭にあたるものではないかと考えられていましたが、今回の調査ではその範囲を確認することはできませんでした。今回の調査状況から推定するとその範囲はさらに東方へと広がっていくものと予想されます。
  2. 今回確認された建物C・Dもこれまでに確認されている建物A・Bや柱列(柵)などと方位およびその軸線を揃えて構築されている事が判明しました(図2)。推定される建物群の軸線は東西方向に通るもので、方位は建物・柱列(柵)などすべての構造物が真北に対して約5度西に振れた方位に揃えて建てられています。これらの建物・柱列(柵)は構築された時期やその廃絶も期を同じくするとみられることから、一連の遺構は明確な設計図に基づいて、強い規格性を持って構築されたものと判断されます。
  3. これまでの周辺の調査成果から推定すると、これまで一連の調査対象となった微高地上が3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違い無いと思われます。
  4. 建物Dの復元規模は4間四方の南北19.2m×東西12.4m、床面積238.08m2と3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇るものとなりました。現時点の考古学的な状況からは建物の性格については判然としませんが、その規模から推定するに居館域における中心的な役割を果たす建物の一つと考えています。

以上これらの事柄を総合すると、これまでに検出された建物A〜Dや柱列(柵)の存在からは方位や軸線を揃えた建物が東西に4棟連続して構築されていたことが判明しました。

また、個々の建物を比較すると柱列(柵)の内と外ではその規模に明確な違いが認められることから柱列(柵)を境に建物の重要度に違いがあると考えています。地形からの推定では太田北微高地上に東西150m×南北100m前後の居館区画が存在するものと考えられており、その内部は柱列(柵)を境として内郭と外郭に整然と区画されていたものと思われます。

このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の確認は国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の大型建物などとは完全に一線を画する構造を持つものです。

また、今回明らかとなってきた纏向遺跡の古墳時代前期初頭の居館構造には未だ明らかにされていない飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形があると考えられることから、周辺地区における一連の調査は我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持っものと言えるでしょう。今後も関係各位のご協力のもと、更に周辺地区の調査を推進し、居館内の構造や個々の遺構の性格を明らかにしていきたいと考えています。

図3 建物D

図3 神戸大学建築史研究室 黒田龍二先生による復元案

図3 建物C

図4 神戸大学建築史研究室 黒田龍二先生による復元案

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