難波宮跡発掘調査(NWO9−2次)

説明文

2010年1月10日(日)

大阪市教育委員会・(財)大阪市文化財協会・大阪歴史博物館

■今回の発見

大阪市教育委員会と(財)大阪市文化財協会、大阪歴史博物館は、昨年10月から国史跡である難波宮跡(大阪市中央区法円坂)の発掘調査を行ってきました。これは、平成21年度の難波宮跡整備事業の一環として行っているものです。

今回の調査では、後期難波宮(726〜784年)の時期に属する建物の基壇(きだん)跡が見つかりました。この発見は、後期難波宮の構造を知り、日本における古代都城の発展を考えるうえで、今後に繋がる重要な知見です。

■詳しい調査成果

今回の調査地は難波宮跡公園の東側にあたります。奈良時代の後期難波宮では大極殿院の東側に位置し、飛鳥時代の前期難波宮では朝堂院東回廊の東隣にあたります。また、難波宮跡の発見者である故・山根徳太郎博士が昭和29(1954)年に最初に発掘を行った場所のすぐ南東側にあたります。調査地北側では、これまでに奈良時代のものと思われる瓦の堆積や基壇と考えられる高まりなどが見つかっていましたが、その実態は不明でした。こうしたことから、今回の調査では難波宮東方地域の構造を解明することをおもな目的としました。

調査地は近・現代の建物などで一部破壊されていましたが、各時期の地層が比較的良好に残っていました。江戸時代の地層の下には中世の耕作土があり、さらにその下で、後期難波宮の時期に属する建物の基壇跡が見つかりました。

基壇跡は東西約11m、南北5m以上の規模があります。朝堂など後期難波宮の他の建物を参考に考えると、調査区の南に延びる南北棟と考えられます。基壇は土を盛り上げて造成されていますが、土を堅くつき固める「版築(はんちく)」の痕跡は確認できませんでした。基壇の周辺では凝灰岩(ぎょうかいがん)の破片が見つかり、建物の外装に使用していたものが解体の際に壊され飛び散ったものと考えられます。また重圏(じゅうけん)文軒丸瓦(もんのきまるがわら)をはじめとする後期難波宮の時期の瓦も基壇の周辺から見つかっています。こうした状況から、今回検出した建物は朝堂などと比べればやや小型ながら、凝灰岩で覆われた基壇を持ち、重圏文の瓦で飾られた立派なものであったと考えられます。

■調査成果の意義

今回の調査では後期難波宮の時期をはじめとする各時代の遺構や遺物が見つかり、周辺の歴史を復元する上で重要な手がかりを得ることができました。とりわけ、これまでに大極殿や朝堂といった中心部以外ではほとんど例のない基壇建物の存在が明らかとなったことは、難波宮東部の構造を考える上で極めて重要な意味があります。これが重要な役所の一部なのか、あるいは「東南新宮」に係わるような特別な施設の一部なのかは、今後の周辺の調査とあわせて考えていく必要があります。

また一般的に、後期難波宮の建物は後世の破壊を受けて残りがよくありませんが、今回は最大で高さ25cm分の基壇が残っていました。これにより難波宮の建築方法に関する具体的な資料が増えたことも、重要な成果と言えるでしょう。

用語解説

[難波宮]
上町台地北端(中央区法円坂一帯)に位置する宮殿で、昭和29年(1954)から始まった発掘調査によって明らかになった。飛鳥時代と奈良時代の二時期があり、飛鳥時代の宮殿を「前期難波宮」、奈良時代の宮殿を「後期難波宮」と呼んでいる。難波宮跡は昭和37年(1962)に後期難波宮大極殿一帯の17.500m2が国指定史跡になり、以後数度の追加指定を経て、現在の史跡指定範囲は大阪歴史博物館南側の広場を含め、約13万m2に及ぶ。
前期難波宮は、孝徳(こうとく)天皇(在位:645〜654年)によって造営された「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」であると考えられている。蘇我(そが)氏を滅ぼした乙巳(いっし)の変(へん)(645年)ののちに飛鳥から遷都され、白雉(はくち)元年(650)から造営が始まり、2年後に宮殿が完成したと『日本書紀』に記される。国内最初の本格的宮殿で、内裏前殿(だいりぜんでん)の両側には八角形の楼閣風建物がそびえ、14棟以上の朝堂(ちょうどう)、宮城南門(朱雀門(すぎくもん))などを有する。建物はすべて掘立柱(ほつたてはしら)建物で、瓦は使われていない。
孝徳天皇が亡くなる直前に政治の中心は再び飛鳥に戻され、その後、天武(てんむ)天皇(在位:673〜686年)の時代には副都として整備されるが、朱鳥(しゅちょう)元年(686)の火災によって焼失してしまった。
後期難波宮は、神亀(じんき)3年(726)に聖武(しょうむ)天皇(在位:724〜749年)によって前期難波宮と同じ場所に造られた。中心部は大極殿(だいごくでん)や8棟の朝堂、内裏などで構成される。このうち政務や儀式が行われた大極殿・朝堂は礎石(そせき)建物で瓦茸屋根が採用されたが、天皇の居住空間である内裏は従来からの掘立柱建物で瓦を使用していない。天(てん)平(びょう)16年(744)に一時的に首都になるが、翌年には平城京(へいじょうきょう)に再び都が遷され、以後は副都として機能した。延暦3年(784)の長岡宮(ながおかきょう)造営のために宮殿の建物が解体されて、移築された。これによって難波宮は終焉する。
[礎石建物]
基壇あるいは地面の上に据え置いた礎石の上に柱を立て、上屋を組んだ建物。掘立柱に比べて建物が沈下しにくいとされている。屋根は瓦葺きであることが多く、後期難波宮でも大極殿や朝堂院などの礎石建物に瓦葺き屋根が採用されている。
[東南新宮]
『続日本紀』天平勝寶八歳(756)二月の記事に出てくる宮室。天平勝寶八歳二月二四日、孝謙天皇は聖武太上皇とともに難波に行幸する。途中、智識寺とその周辺の5寺を礼拝したのち、2月28日難波に到着。『続日本紀』には「是の日、行、難波宮に至り東南新宮に御す」とある。その後、難波には4月15日まで滞在しており、この間、東南新宮が使用されたと考えられる。その名称から「東南方向にある新たな宮」と考えられ、当時まだ存在していた後期難波宮内裏の東南方向が候補地となる。今回の調査地周辺はまさに「東南」の地であり、調査地周辺を東南新宮の候補地と考える説も出ている。

難波宮年表

西暦 出来事
645 乙巳の変、都が難波(なにわ)へ
650 孝徳天皇により難波長柄豊碕宮造営開始(前期難波宮)
652 難波長柄豊碕宮完成
686 火災により難波宮消失
726 聖武天皇により、難波宮造営開始(後期難波宮)
744 難波宮、一時的に首都となる
784 長岡宮遷都、難波宮終焉
1954 山根徳太郎博士による発掘調査開始
1962 難波宮、国史跡に指定

図1 後期難波宮と今回の調査地

図面

図2 基壇が解体され遺構となるまで

図:基壇の構造、基壇建物のイメージイラスト/建物を解体しているイメージイラスト/今回の発掘状況の写真

図3 今回見つかった遺構

遺構図

写真/イラスト

1953年発見の鴟尾
鴟尾の写真

難波宮と大阪城
航空写真

後期難波宮復元模型(大阪歴史博物館蔵)
模型の写真

南東から見た調査地と難波宮跡公園
写真

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