飛鳥寺西方遺跡

明日香村教育委員会
2010年3月20日

説明文

1.はじめに

今回の調査は飛鳥寺西方一帯の性格を解明することを目的として、平成20年度から実施している範囲確認調査です。調査地は「入鹿の首塚」から南へ約70m、飛鳥寺中金堂跡(安居院本堂)からは南西へ約120mの、飛鳥寺寺域の西方にあたります。

この飛鳥寺西方地域は、『日本書紀』において「飛鳥寺西槻」と呼ばれ、大化の改新前夜に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として知られています。また壬申の乱にあたっては、飛鳥を守るための軍営を置いたり、蝦夷や隼人などを饗宴した場所としても知られています。

これまでこの地域では、橿原考古学研究所や奈良文化財研究所によって発掘調査が実施されてきました。その結果、7世紀前半には、西面大垣の西10mに南北掘立柱塀、西14mには南北方向の土管暗渠が見つかりました。7世紀後半になると、西面大垣から西へ約9mの位置に幅1.2mの石組大溝、西約18mにも幅50cmの石組小溝があることがわかっています。また西門から約25m、首塚の南側には幅4.3mの敷石遺構が南北に繋がっていました。

このような、飛鳥寺の西方地域での調査成果をふまえ、史料に残る「飛鳥寺西」の範囲と構造を把握することを目的として調査を実施しました。調査区総面積約120m2です。

2.検出遺構

今回の調査では石組溝・土管暗渠・敷石遺構などを検出しました。いずれも西門周辺の過去の調査で検出されている遺構の延長にあたります。

1区では、幅約1.2m、深さ15cmの石組溝があります。側石のいくつかはすでに抜き取られていますが、溝底には拳大の河原石を敷いています。土管暗渠は直径約20cmの瓦製土管を連結したもので、幅1.6m、深さ約1mの掘形の底に土管を埋設していました。柱穴は石組溝のすぐ西に接した位置にあって、50〜70cmの不整形な形で、黄褐色の山土は柱抜取痕跡の可能性があります。整地土上面にはバラスが敷かれています。2区にも同様のバラス敷きが広がっており、一連のものと考えられます。

2区の敷石遺構は幅5.2mの石敷です。首塚の南方で確認している敷石の南側延長部に相当します。

3.まとめ

今回の調査では、飛鳥寺西方地域で飛鳥時代の石組溝、土管暗渠、敷石遺構、バラス敷、柱穴などを確認することができました。かつて飛鳥寺西門付近の調査で検出されていた遺構が南側にも展開していたことが確認できました。飛鳥寺西側一帯において、土管暗渠が南北160m以上、石組溝が110m以上、敷石遺構は約70mにわたって続いていることが判明しました。このように、飛鳥寺西方地域では石組溝や敷石遺構、バラス敷など人工的な整備状況がより南側にも広範囲に広がっていました。今回の調査では、槻の木の広場の一部に相当するとの確証は得られませんでしたが、飛鳥寺西方の土地利用の状況を考える良好な資料となります。今後の調査によって、飛鳥寺西の実態解明が期待されます。

飛鳥寺西側周辺の遺構図(S1/600)

飛鳥寺西側周辺の遺構図

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