2011(平成23)年8月6日(土)
財団法人枚方市文化財研究調査会
調査名 | 禁野本町遺跡第172次調査〔新病院(枚方市民病院)整備事業に伴う調査〕 |
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調査地 | 枚方市禁野本町2丁目 地内 |
調査期間 | 平成22年6月25日〜平成23年11月末頃(予定) |
調査面積 | 約6800m2 |
調査主体 | 財団法人校方市文化財研究調査会 |
調査担当 | 西田敏秀・井戸竜太・岡島俊也・真鍋貴匡 |
古代の遺構面を対象とした本格的調査は、近代の禁野火薬庫跡の調査を終了した後、平成22年9月14日から開始しており、平成23年11月末頃までを予定しています。古代の調査は、2/3(南・中央ブロック)が終了しており、南ブロックは今年3月に第1回現地説明会を行い、既に埋め戻しも完了しています。現在は残る北ブロックを調査中です。今回は、中央と北ブロックの調査成果を中心に発表を行います。
禁野本町遺跡は、市域北西に位置する交野台地上に所在しています(図1)。南側にある百済寺跡は、奈良〜平安時代における百済王氏(くだらのこにきし)の氏寺と考えられています。その北側隣接地に展開する同遺跡は、百済王氏とその一族の居住地に推定されています。百済王氏は、かつて朝鮮半島に存在した百済国の王族の末裔です。百済王氏の敬福が奈良時代中頃に陸奥守となり、同国で発見した黄金を東大寺大仏の鍍金用として聖武天皇へ献上しました。そのことにより、交野の地を賜り、一族が大阪の上町台地に位置する摂津国百済郡(せっつのくにくだらこおり)から移住したとするのが有力な通説となっています。
これまでの調査では、方形区画や区画内に計画性を持って配された掘立柱建物群及び、区画に沿う南北・東西方向の道路状遺構などが検出されています。南北方向の道路状遺構は、南側に位置する百済寺の南北中軸線を北に延ばした線上に位置しており、東西方向の道路状遺構は、ほぼ直交する形で設定されていました。百済寺以北に奈良(平城京)・京都(平安京)と同様、碁盤の目状の方形区画道路を伴った町が形成されていたと指摘されています。既研究をもとに平城京をモデルとした禁野本町遺跡の方形区画復元案を図4に呈示しました。
調査では、掘立柱建物を主な遺構とする宅地と、その西限を区画する南北溝を検出しました。南北溝の西側、宅地より一段下る箇所には、平坦面が並走してます。現時点で断定は難しいですが、道路状遺構の可能性も考えています。宅地内の遺構には、奈良時代後半から平安時代中期頃(8世紀後半から10世紀頃)の掘立柱建物52棟、区画に用いられた塀12棟、溝10条、井戸2基等があります。東と西に建物群のまとまりがあり、西建物群には倉庫である総柱建物が多い等、エリア別に使い分けがあったようです。これらの建物群は、奈良時代後半頃に成立し、平安時代中期頃には廃絶すると考えられ、所によっては5時期の建て替えがみられます。
土地利用の最盛期は、平安時代前期頃(8世紀末から9世紀中葉頃)です。この時期の建物群(図3、黄色の建物群)は複数の建物が軒を揃えて建ち並び、建物間が均等な間隔で塀によって区切られるなど、計画性を持って配置されており、平安京の宅地と同様な様相を呈しています。しかし、1町内の宅地区画のあり方は異なっているとみられ、独自の狭小な区画設定があったものと考えています。
建物は、廂(ひさし)の付かない掘立柱建物がほとんどであり、切妻で板葺(いたぶき)屋根のものが軒を連ねていたと思われます。平安京における上級貴族の邸宅に比べ、やや規模は小さいものですが、桁行きが3間以上で柱間が7〜8尺と長く大きい建物が多いことから、百済王氏に連なる有力者の宅地とみられます。
建物主軸は、西へ約4度傾くものが中心となり、百済寺の南北中軸線とほぼ共通しています。このことから、百済寺とその北方に拡がる宅地が一体となって区画整備された可能性を窺い知ることができます。
今回の調査では、計画性を持って整然と建物群が配置された宅地や、その西限を区画する南北溝がみつかる等、平安時代前期頃の都市的な様相が明らかとなりました。この成果は、禁野本町遺跡に想定されている方形区画の町並みの一端を垣間みている可能性があり、今後の調査研究により、さらに明確になるものと考えられます。(井戸)
図1 禁野本町遺跡の位置(S=1/100万)
図4 奈良時代から平安時代における百済寺・禁野本町遺跡周辺の方形区画復元案(S=1/4000)
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