2011(平成23)年9月10日(土)
調査地 | 京都市山科区西野山階町地内 |
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調査期間 | 2011年7月21〜2011年9月下旬(予定) |
調査主体 | 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 http://www.kyoto-arc.or.jp/ |
山科本願寺は、文明10年(1478)浄土真宗中興の祖・蓮如上人により造営が開始されました。寺域は堀と土塁で囲まれ、主要堂舎の建ち並ぶ「御本寺」、有力末寺の坊舎のある「内寺内」、門徒の居住区のある「外寺内」の三つの郭で構成され、壮大な規模を誇っていました。寺内町の経済的な発展にも支えられ、将軍家や有力武家をしのぐほど繁栄しましたが、天文元年(1532)に管領細川晴元率いる近江守護職六角定頼と法華宗・延暦寺の連合軍によって攻撃され、焼け落ちました。
今回の調査は、山科本願寺跡の16次調査になります。当地が「御本寺」の中心部に近い場所にあたることから、昨年度に引き続き、遺構の有無を確認するための調査を行っています。
調査地の西側には、「御本寺」を囲う土塁と堀が現存しています。現状で幅約14m、高さは堀の底から約65mあります。断面が露出しており、土の盛り方が良くわかります。調査区西側では屈曲する土塁の裾部が見つかりました。裾部には、幅1〜15m、深さ約0.2mの溝1が巡ります。溝1には多量の土器類が投棄されていました。
調査区東側では、15次調査で見つかった通路状遺構と柱列1・2の延長部分が見つかりました。調査区の中央付近で南に屈曲しており、14次調査で見つかった南東に位置する建物群を囲う施設の可能性があります。
調査区北側では、石組みの溝2が見つかりました。検出した長さは約14m、溝の幅は約1m、深さは0.1〜0.3mあります。この溝は、部分的に石の用い方に変化が見られること、屈曲あるいは斜行することなどから、景観を意識した庭の一部と考えられます。周囲には柱列3や礎石などが点在することから、建物と建物の間の坪庭風の空間であったと推測されます。
現存する山科本願寺の土塁は数少なく、今回の調査で土塁裾部が良好に残存していることがわかったことは大きな成果です。また、今回見つかった坪庭風の空間は、現在の西本願寺の堂舎配置を参考にすれば、阿弥陀堂や御影堂の裏手に存在する書院のような建物群に関連する可能性が高いと言えます。過去の調査成果を含め、「御本寺」内部の空間の使われ方が次第に明らかになってきました。今後の阿弥陀堂跡や御影堂跡の発見に向けた大きな手がかりとなる成果と言えます。
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