2012(平成24年)年2月18日(土)
所在 | 京都府向日市向日町北山65−5・6 |
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調査期間 | 2011(平成23)年12月1日〜2012(平成24)年2月29日(予定) |
調査所管 | 向日市教育委員会 |
調査機関 | 財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広) |
調査協力 | 向日市建設産業部 向日神社 |
当センターでは元稲荷古墳の保存と活用の方法を探る目的で、2006(平成18)年から範囲内容確認調査をすすめています。過去5年間の成果としては、後方部東側(3・4次)及び北側(5次)、南側西南端裾から第二段斜面南西隅角(6次)、西くびれ部(7次)を対象に墳丘の遺存状況と裾位置を確認してきました。
今年度は前方部西南側の状況を正しく把握するために調査を実施しています。
調査の結果、前方部前半(西南側)の墳丘基底平坦面から墳頂西端までに遺存する葺石や磯敷を検出することができました。また、前方部の詳細な測量図を作成し墳丘外表の観察をもおこない、これまでの調査成果を総合して前方部の全容の解明につとめました。以下には成果の概要を記述します。
段丘層(地山)の上に暗灰茶色粘質土を施して、拳大の礫が敷き詰められています。墳丘の裾から外側に向けて一定の範囲には礫敷がひろがる可能性が高いものと考えられます。
第一段の幅は約2.5m、高さ約1.5mになります。葺石は長さ10cm未満の礫が多く用いられ、基底石は不使用で部分的に長さ15cm程度のやや大きな石を集めて裾を固めたり、短い小口側を外に向けて並べるところがみられます。礫敷との境界は不明瞭になっています。
幅約1.5mでほぼ水平な面がつくられ、礫敷が良好に遺存しています。斜面の葺石背後の裏込め土と同じ暗灰茶色粘質土を用いて中小の礫が敷き詰められています。
基底石は長さ20〜25cm大の砂岩やチャートの河原石が使われ、これらの背後には磯を厚く施しています。なかには約55〜600の傾斜角で斜面に立て掛けるところもあります。基底石の設置面は前端にむけて高くなり、せり上がる墳頂に対応して第一段平坦面も上昇しています。葺石は長さ10cm未満の礫が多く、積み重ねるというよりも裏込めの土を多用しながら詰め込むような施し方であったと考えられます。ほとんどが崩れ落ちており、基底石までも横にズレていたり倒壊している箇所があります。
調査区の北端では第二段斜面から平坦面に移行する場所に礫敷が遺存しています。長さ5cm程度の最小サイズの礫が多く用いられています。また、石室石材と同じチャートもしくは粘板岩の板石が墳頂から第二段斜面にかけて多数転落しており墳頂や斜面でこの種の石材が使用されていた可能性が考えられます。前方部隅角1970年の調査区を再発掘して前方部隅角の位置とそこへつながる前方部側線の形状を確認しました。隅角付近は第一段斜面から墳頂までの稜線に沿って切り崩されており、基底部だけが遺存していました。西側側面では小ぶりな礫が小口を外に向けて置かれ、頂角から前端側にかけては長さ20cm大の基底石をならべて側面よりも裾を明確に設けています。前方部前半の裾はくびれ部から南側へ28m離れた地点で外側へわずかに開く形状を呈しています。
今回の調査の成果については、以下のようにまとめることができます。
元稲荷古墳は前方後円墳が巨大化し定式化した後の3世紀後葉につくられた大型前方後方墳です。桜井市箸墓(はしはか)古墳の「モデルプラン」をもとにその3分の1規模で設計された可能性が想定されています。ただし、前方部の形状は箸墓古墳のようにくびれ部からゆるいカーブを描きながら前端に向けてひろがる「バチ形」ではななく、直線的にひらいていく形状であることも指摘されていました。
このような前方部の形状については、1970(昭和45)年に京都大学考古学研究室が実施した第2次調査と今回の調査でその妥当性が確かめられました。それでは、箸墓古墳の築造規格(後円部長:前方部長=1.3:1の構成比率)を有していながらも前方部の形状が異なる意味をどのように理解すればよいのでしょうか。
元稲荷古墳は向日丘陵の頂部でも東端に寄った斜面際に立地しています。前方部は左右非対称で墳丘裾の高さは東側が約0.5m低く、斜面幅も約1m長いことから東へ傾斜する地形を利用してつくられていたと考えられます。そのため、前方部で最も高くなる後方部頂からつづくスロープ先端の平坦面は墳丘の中軸線よりも西側にひろがっています。
大王墓で斜面地につくられた天理市西殿塚(にしとのづか)古墳をみると傾斜面に前方後円形のひな壇を重ねて墳丘が築かれています。直線的にひろがる前方部は西側が短く、くびれ部の位置は東西でずれており左右非対称のつくりとなっています。墳丘長は約230mで元稲荷古墳のおよそ2.5倍の規模にあたります。元稲荷古墳の墳丘裾の輪郭線を拡大して西殿塚古墳の測量図に重ね合わせると前方部側縁の形状が相互に近似し、東側では前方部の比率がほぼ一致することがわかります(図3)。
以上のことから、元稲荷古墳の墳丘造営にあたっては箸墓古墳を「モデルプラン」とする旧来の枠組みが継承され、西殿塚古墳で深化した傾斜地での墳丘構築の技術が援用されるなど二代にわたる大王墓の造営方法が採用されていたと想定することもできます。
このように見てくると元稲荷古墳の被葬者は初期「倭王権」に参画しながらも政治経済的に自立した桂川流域を支配拠点に置いた有力な首長であったと考えられます。畿内から各地へつながる交通の要衝をおさえた「オトクニ」の盟主として軍事的、経済的力量に対する評価が王権内部での政治階層的立場にあらわされ、大王墓と相似的な大型古墳の造営を可能としたのではないかと考えられます。
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