白味才西古墳(しろみさいにしこふん) 現地説明会資料

2012年(平成24年)5月19日(土)
大山崎町教育委員会

説明文と図

調査地大山崎町字大山崎小字白味才地内
調査期間平成24年2月13日〜5月下旬(予定)
調査面積約240m2

調査成果

大山崎町教育委員会では、字大山崎小字白味才地内において、開発行為に伴う事前調査として、白味才遺跡の発掘調査を実施しております。この調査では、横穴式石室の埋葬施設を有する古墳を検出いたしました。古墳は、所在の小字名と位置関係から「白味才西古墳(しろみさいにしこふん)」と命名いたしました。


第1図 白味才西古墳の位置

古墳は、石室内から出土した土器の年代から、7世紀中頃(約1350年前)に築造されたことがわかります。一辺約10メートルの規模を有する方墳に想定されます。横穴式石室は、全長約5.7メートルの規模を有し、この時期のものでは、比較的大きな規模に位置付けられます。おそらく、この古墳は、現在の大山崎町一帯に相当する範囲を治めた有力者の墓に想定されます。

この時期の集落遺跡は、小泉川一帯に所在しています(第2図参照)。百々遺跡、算用田遺跡、松田遺跡、下植野南遺跡などの遺跡名で知られるこれらの集落遺跡は、扇状地上に立地し、古墳時代前期や中期から継続する居住域です。白味才西古墳は、これらに住む人たちによっての造営されたことが想定されます。


図2 飛鳥時代の集落遺跡と古墳の分布

一般的に7世紀は、飛鳥時代といわれますが、横穴式石室を有する古墳造営も各地で継続します。白味才西古墳が築かれた7世紀中頃は、その最終段階にあたります。3世紀末頃より始まった古墳造営の時代は、この時期にほぼ終わりを迎えます。また、上記の集落遺跡もこの時期を境に消滅します。かわって、7世紀後半には、寺院造営が活発化します。周辺では、鞆岡廃寺(ともおかはいじ)や山崎廃寺の存在が知られます(第2図参照)。

白味才西古墳が築かれた7世紀中頃は、こうした時代の変革期でもあります。


第3図 横穴式石室の構造と各部の名称(京都市大枝山21号墳)

写真

サイト管理者注:下記の写真1〜4は、大山崎町HPにアップされている当日の現地説明会資料PDFから転載しています。当日の配布資料はモノクロだったためです。

写真1
写真1 墳丘全景(南東から)

写真2
写真2 横穴式石室の全景

写真3
写真3 玄室内

写真4
写真4 側壁の石材構築状況

サイト管理者注:下記は言説会場に展示されていたパネルです。

石室内の埋土の状況
墳丘の復元
石室内部の写真

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