2012年(平成24年)9月15日(土)
独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部
今回の調査では、南北2か所の調査区を設定しました。北調査区では鉄鍛冶(かじ)工房を検出し、左京三条一坊一坪(さきょうさんじょういちぼういちつぼ)の鉄鍛冶工房の全容がほぼ明らかとなりました。南調査区では三条条間北小路(さんじょうじょうかんきたこうじ)とその南北両側溝を検出し、一坪と二坪の境界部分の様相が判明しました。
今回の調査地にあたる平城京(へいじょうきょう)左京三条一坊は、平城宮(へいじょうきゅう)の正門である朱雀門(すざくもん)の南東に位置する区画で(図1)、発掘調査以前は史跡平城京朱雀大路(すざくおおじ)跡に隣接する緑地公園の一部となっていました。1986〜1996年におこなわれた奈良市教育委員会や奈良国立文化財研究所(当時)の発掘調査により、左京三条一坊一坪は、朱雀大路に面する西辺と二条大路に面する北辺に築地塀(ついじべい)をもたない、広場のような空間であった可能性が高いとされていました。また、これらの調査では、一坪とその南に位置する二坪を区切る三条条間北小路とその南北の側溝が確認されており、二坪には西辺・北辺ともに築地塀が存在したとされています。現在は、その築地塀の一部が復元されています。
図1 平城京左京三条一坊の位置(★の位置)
この場所には国土交通省によって平城宮跡展示館(仮称)の建設が計画されており、2010年から継続的に奈良文化財研究所が発掘調査をおこなってきたところです(平城第478・486・488・491次調査)。今回の調査もその一環です。
敷地の東辺を南北に細長く調査した第478次調査では、調査区の東北部で上段が正方形、下段が六角形の井戸枠をもつ大型の井戸を検出しました。また、調査区の南端部では三条条間北小路とその南北両側溝を確認しました。敷地の北方を調査した第486次調査では、奈良時代前半の大規模な鉄鍛冶(かじ)工房群の存在が明らかとなりました。第486次調査の南方、敷地の中央部を調査した第488次調査では、一坪を南北に区切る坪内道路(つぼないどうろ)を再確認し、さらにそれよりも古い建物群を確認しました。第488次調査の南方、敷地の中央やや南を調査した第491次調査では、第488次調査で一部検出していた建物の大きさが確定し、さらに別の掘立柱(ほったてばしら)建物1棟を検出しました。
今回の調査では、南北2か所の調査区を設定しました(図2)。北調査区は第486次調査で確認した鉄鍛冶工房が広がる範囲の確認を目的とし、南調査区は一坪・二坪の境界部分の様相を明らかにすることを目的としています。調査面積は北調査区693m2(東西33m×南北21m)、南調査区1152m2(東西48m×南北24m)の、合計1845m2です。調査は7月2日に開始し、現在も継続中です。
図2 今回の調査の位置
検出したおもな遺構(いこう)は、鉄鍛冶工房と掘立柱塀3基、溝1条です。
図3 北調査区遺構図(1/200)
調査区西半で検出しました。東西約13m、南北約7mの範囲に23基の鍛冶炉が遣(のこ)っており、さらに鍛冶炉に風を送るための装置である鞴(ふいご)や、熱した鉄を敲(たた)く際の台である金床(かなとこ)を設置するための土坑(どこう)が付属します。鍛冶炉は基本的に円形や楕円形に地面を掘りくぼめ、内側に砂粒などを含む土を貼り付けて造られています。炉の大きさは遣っている部分で20〜30cmほどのものが多く、熱を受けたため中央が赤色や黒色に変化しています。工房を覆(おお)う建物が存在していたと考えられますが、現在調査中です。
鍛冶炉
調査区東方で検出した、南北方向の掘立柱塀です。3間(けん)分を確認しており、北側にさらに続く可能性もあります。柱の間隔は約3mです。掘立柱塀1よりも東側には鉄鍛冶工房に関連する遺構はみられないため、今回検出した工房区域の東側を区切る塀であった可能性が高いと考えています。
掘立柱塀1の西方で検出した、南北方向の掘立柱塀です。3間分を確認しており、北側にさらに続く可能性もあります。柱の間隔は約3mで、柱穴の南北位置は掘立柱塀1とおおむね揃います。工房を覆っていた建物の柱穴(ちゅうけつ)の一部である可能性もあります。
調査区北端の西よりで検出した、東西方向の掘立柱塀です。4間分を確認しています。柱の間隔は約2.7mです。掘立柱塀3の周辺に堆積(たいせき)していた土は鍛冶炉周辺のものとは異なり炭を多く含んでおらず、また掘立柱塀3よりも南側で鍛冶炉がみられなくなるため、今回検出した工房区域の北側を区切る塀であったと考えています。
調査区西壁で確認した、南北方向の素堀溝(すぼりみぞ)です。溝は工房に由来する炭が混じった土で埋まっています。工房区域の排水機能を担っていた可能性もあります。南北溝1よりも東側で鉄鍛冶工房に関連する遺構がみられなくなります。また、第486次調査で検出していた斜行溝と東西溝の合流点に接続します。これらのことから、今回検出した工房区域の西側を区切る溝であった可能性が高いと考えています。
検出したおもな遺構は、三条条間北小路とその南北両側溝、建物1棟などです。
図4 南調査区遺構図(1/200)
調査区中央で検出した、左京三条一坊一坪と二坪を区切る東西道路です。東西約45mにわたって確認しました。南北両側溝は護岸(ごがん)などのみられない素掘溝で、ともに幅約1.5m、深さ30cm以上です。ただし、南側溝は調査区西端から約4mの範囲では北側に広がり、幅約2.5mとなります。両側溝中心どうしの距離は6.7mで、現状での路面幅は約5mです。特に南側溝の上層に堆積していた土や、南側溝の周辺を中心にして多くの瓦片が出土しています。
調査区西方で検出した、桁行(けたゆき)4間、梁行(はりゆき)2間の東西棟の掘立柱建物です。柱の間隔は桁行・梁行ともに約3mです。三条条間北小路と重なりますが、東西面中央の柱を据えるための穴は北側溝内に堆積した土に掘られており、北側溝が埋まった後に建てられたことがわかります。
鉄鍛冶工房に関連する鉄滓(てっさい)・鞴の羽口(はぐち)・鍛造剥片(たんぞうはくへん)などがあります。金床に利用されたとみられる石の破片も多く、また、砥石(といし)が出土しました。そのほか、須恵器(すえき)・土師器(はじき)・瓦が出土しました。
須恵器・土師器・瓦が出土しました。須恵器片には墨書(ぼくしょ)をもつものが4点あり、何と書いているかわかった2点には「司」や「凡」と記されています。須恵器には硯に転用されたものもあります。須恵器・土師器・瓦ともに奈良時代後半のものが中心です。また、北側溝からは土馬が出土しました。
現時点における今回の調査成果は以下の通りです。
第486次調査により北方へ続くことが想定されていた鉄鍛冶工房の範囲が確定しました。これにより、北調査区の北方にあった二条大路のすぐ南まで鉄鍛冶工房が広がっていたことが判明しました。今回の調査で検出した鉄鍛冶工房は第486次調査で検出した奈良時代前半の鉄鍛冶工房と一連の工房群を構成していたと考えられます。工房の範囲は朱雀門のすぐそばにまでおよんでおり、大規模なものである点からみても、これらの工房群が都城(とじょう)の造営あるいは改修と関連する可能性がより高まったといえます。古代の都城とそれを支えた手工業部門との関係について、さらに詳細な資料を得ることができました。
また、第486次調査と合わせて、奈良時代前半における平城京の鉄鍛冶工房の具体的な様相がより一層明らかになりました。奈良時代の鉄鍛冶工房の実態と変遷過程を考える上で重要な知見を提供したといえます。
今回の調査区では、工房の廃絶後は整地(せいち)がなされており、奈良時代後半に位置づけられる遺構はみられませんでした。そのため、これまでにも指摘されてきたように、左京三条一坊一坪の少なくとも西半は広場として利用されていたことを追認できました。
三条条間北小路とその南北両側溝の広がりを確認しました。奈良市教育委員会が検出した南側溝は両肩が大きく浸食されており、溝本来の規模は不明でしたが、今回の調査により南北両側溝ともに幅を確定できました。南側溝は西側で幅を広げることが明らかになるなど、三条条間北小路の側溝の詳細な様相が判明しました。
さらに、北側溝が埋まった後に建物が建てられていたことが明らかとなりました。側溝や道路が使用されなくなった後の土地利用の一端が判明したといえます。ただし、北側溝が埋まった時期や南北両側溝が役割を終えた時期の前後関係などについては現在も調査を継続中です。
なお、二坪を区切る築地については、築地本体の版築(はんちく)などの確実な痕跡は確認できていません。ただし、奈良市教育委員会の調査成果と同様に、築地塀が想定されている位置には何もない空間が広がっていることを確認しており、また築地塀に関連する可能性のある穴も検出しています。さらに、周辺の出土状況に対して南側溝付近からは比較的多くの瓦片が出土しています。これらのことから、南調査区の南端部には本来築地塀が存在していたと考えられます。
|ページ先頭に戻る|
Tweet