元稲荷古墳第9次調査 現地説明会 資料

元稲荷古墳前方部前端、南東隅角の調査

2012年(平成24年)9月22日(土)
向日市教育委員会/公益財団法人向日市埋蔵文化財センター

説明文

所在京都府向日市向日町北山65−5・6
調査所管向日市教育委員会
調査協力向日市建設産業部 向日神社
調査期間2012(平成24)年7月23日〜9月28日(予定)
調査機関公益財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広)

1 はじめに

当センターでは元稲荷古墳の保存と活用の方法を探る目的で、2006(平成18)年から範囲内容確認調査をすすめています。過去6年間の成果としては、後方部東側(3・4次)及び北側(5次)、南側西南端裾から第二段斜面南西隅角(6次)、西くびれ部(7次)、前方部西側(8次)を対象に墳丘の遺存状況と裾位置を確認してきました。

今年度は調査区を3箇所に設定し、前方部前端(第1調査区)および南東隅角付近(第2・4調査区)、東側斜面(第3調査区)の構築状況を正しく把握するために調査を実施しています。

図1
図1 元稲荷古墳前方部調査区位置図(1/400)

2 調査の成果

① 前端(第1調査区)

前端は前方部の中で最も高く築かれた場所にあたります。墳丘裾から墳頂までの高さは4.5mにおよび、さながら正面観は石積みの壁が立ちふさがるかのような印象を抱かせます。この斜面の途中には高さ2.5m付近で幅約1mの平坦面が設けられています。斜面長は第1段が6.5m、第2段は4.5mです。

墳丘の第1段斜面と基底平坦面の境界付近には基底石に相当するやや大ぶりの川原石が東西に並んで据え置かれています。墳丘の裾を明示する基底石は使用されない箇所がほとんどですが、前端の中央付近には顕著に認められます。葺石や礫敷は暗茶色粘質土を背後に施してから築かれています。いずれも使用石材が拳大を主体とするため崩落や変形が著しく本来の形状を留めた箇所は少ない状況です。
第2段斜面の裾には基底石を置き、背後には礫を厚く施して「裏込め」を備えています。

葺石は長さ10cm未満の礫が多く、積み重ねるというよりも「裏込め」に用いた粘質土を多用しながら詰め込むような施し方であったと考えられます。ほとんどが崩れ落ちており、基底石までも前にせり出していたり倒壊している箇所があります。

基底石の設置面は前端にむけて高くなり、せり上がる墳頂に対応して第一段平坦面も上昇しています。

② 南東隅角(第2・4調査区)

隅角については想定位置で確認することができませんでした。しかし、そのすぐ西側で基底付近の葺石と磯敷が「裏込め」の粘質土を伴い確認されました。基底石は飛び石状に散見できる程度であり、裾位置は不明瞭になっています。

③ 東側斜面(第3調査区)

東側の眺望を意識して西側よりも斜面長を1m以上長く、斜面勾配もゆるやかにつくられています。第1段斜面の長さ4.5m、高さ1.5m、第2段斜面は崩落や変形が著しく本来の大きさがはっきりと確認できません。第1段斜面裾は基底石の使用は少なく不明瞭で、拳大の礫が基底平坦面から連続して斜面に施されています。一方、第2段斜面では裾位置に基底石を並べて小口積みが指向されています。

表1 向日丘陵古墳群の主要古墳規模一覧
古墳名五塚原古墳元稲荷古墳寺戸大塚古墳
墳丘長91.29498
後方部辺・後円部径5448〜5057
前方部40.54343.5
384745
くびれ部162331.5

※斜数字は復原値(単位はm)

3 調査の意義

これまでの調査成果を検討して元稲荷古墳の墳丘の形態を復原すれば図2のようになります。段築成は後方部が3段となり斜面長の比率は下段から1:1:2に推測できます。後方部の形状は正方形を呈さず、中央付近が最も大きく南北両端に向かってわずかにすばまる形状に復原できます。前方部は2段でくびれ部付近の高さが2.5m、前方部前端では1.5mまで上昇し墳頂平坦面のせり上がる勾配(斜道)が特徴といえます。前方部の側線形状は直線的でくびれ部からハの字形にのびていき、前端に近いところで外側へ少しひらいています。前端裾はわずかに弧状を呈し、「バチ形」の名残をとどめています。くびれ部で幅は23m、前端では47mとなり、前方部前面側が後方部の幅に匹敵する大きさまで広がっていることがわかります。墳丘の斜面は前方部東側が西側よりも1m以上長くつくられており、眺望がきく東側を大きく見せる工夫が窺えます。また、基底平坦面の高さは南北方向ではほぼ水平につくられていますが、東西は0.8mの高低差が生じています。なお、墳丘の構築にあたっては基盤層を削りだして第1段目の下半部がつくられ盛土を施しています。

それでは、向日丘陵の前期古墳のなかで箸墓古墳をモデルプランとし、「バチ形」前方部を備えるなど最古型式前方後円墳のひとつと考えられている五塚原古墳との違いについて、どのように整理できるかを見ておきます。

五塚原古墳の後円部は正円形を呈し3段に築かれ、斜面長の比率は1:1:2と考えられます。前方部には段築がなく、くびれ部から直線的にのびて前方部前半側はゆるやかな曲線を描きながら開き、前端側は弧状を呈していた可能性が想定できます。また、くびれ部は幅が16mとなり極端に狭いうえに、高さは2.1mで前端にむかって3.0mまでせり上がります。要するに細身で低平な前方部が特徴といえます。なお、墳丘の構築はほぼ全体が盛土で構築されていると考えられます。

墳丘の形態と構造の違いを重視すれば、五塚原古墳は元稲荷古墳よりも古い様相を示していると指摘されます。五塚原古墳は後円部が正円形で三段に築成されていることから、定型化した前方後円墳と判断でき、箸墓古墳の出現以後の古墳とみて間違いないものと思われます。一方の元稲荷古墳はさらに後出して、西殿塚古墳の築造時期に近いころに位置づけて大過ないものと判断されます。

以上のことから、五塚原古墳と元稲荷古墳は桂川右岸に基盤をおいた地域勢力が「倭王権」といち早く政治的な結びつきを強め、二代にわたって大王墓の設計規格や造営技術を導入して築いた古墳と評価することができます。つまり、両古墳の被葬者は初期「倭王権」に参画しながらも政治経済的に自立した有力な首長であったと考えられます。畿内から各地へつながる交通の要衝をおさえた「オトクニ」の盟主として軍事的、経済的力量に対する評価が王権内部での政治階層的立場にあらわされ、大王墓と相似的な大型古墳の造営を可能としたのではないかと考えられます。

図2 五塚原古墳と元稲荷古墳の墳形/側面観の比較(1/800)

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