2013年1月26日(土)
法相宗大本山薬師寺
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所
今回の、薬師寺食堂の全面的な発掘調査は、薬師寺境内保存整備計画に基づくものです。その結果、食堂の建物および基壇の規模がほぼ確定し、基壇築成の工程や基壇外装の様相、造営や廃絶に関する年代的手がかりなど、食堂に関する様々な知見を得ることができました。また、食堂造営以前の薬師寺に関わる遺構も確認できました。
今回の調査は、法相宗大本山薬師寺がすすめている薬師寺境内保存整備計画に基づいた食堂再建事業にともなうものです。調査地は、大講堂の真北に位置し、その一部は過去に近畿大学や当研究所により発掘調査がおこなわれています。今回は、食堂の正確な位置や規模、基壇外装など、食堂の全容を解明すべく全面を発掘調査対象とし、南北約26m、東西約50mの調査区を設定しました。調査面積は約1300㎡で、そのうち新規発掘部分は約950㎡です。調査は、2012年9月24日に開始し、現在も継続中です。なお、土置場を確保するため、調査の終了した東北部をすでに埋め戻しています。
薬師寺は天武天皇9年(680)に天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して発願した寺院です。これが藤原京の薬師寺とされ、現在は本もと薬師寺と呼ばれ、橿原市城殿町に東西両塔および金堂の土壇を残しています。その後、和銅3年(710)の平城遷都にともなって薬師寺も平城京右京六条二坊に寺地を移しました。平城京の薬師寺造営に関しては、長和4年(1015)に書かれた『薬師寺縁起』に、養老2年(718)に伽藍を移すとの記載があります。発掘調査により東僧房北方の井戸から霊亀2年(716)の年紀のある木簡が本薬師寺式の瓦や奈良時代初頭の土器などとともに出土していることから、薬師寺の造営は霊亀2年には開始されていたと考えられます。堂塔の建立に関しては、東塔のみ記録があり、天平2年(730)に建立されたことが『七大寺年表』(平安後期)や『扶桑略記』(平安末期)などにみえます。
食堂は、僧侶が参集して食事を摂り、修業をする場で、金堂・講堂とともに古代寺院の主要な建物のひとつです。薬師寺食堂の造営年代は不明ですが、東塔の年代を手がかりにすると、おそくとも奈良時代前半には建てられたと考えられます。『薬師寺縁起』によれば、創建時の食堂の規模は桁行11間、梁行4間で、屋根の形は寄棟造、建物の大きさは桁行140尺、梁行54尺5寸とあります。扉口は正面に9つ、背面に3つ、左右には脇門が1つずつあり、また内部の厨子には、孝徳天皇が奉納した半丈六の金銅阿弥陀仏像や観音・勢至菩薩像各1体が安置されていたと書かれています。
この食堂は、天禄4年(973)に北側に隣接する十字廊から出火した火災により焼失しました(『薬師寺縁起』、『扶桑略記』)。この火災は、創建以来初めてとなる大規模な災害で、金堂と東西両塔以外の主要な伽藍のほとんどが焼失してしまいました。その後、食堂は寛弘2年(1005)に再建され、保延6年(1140)に編まれた『七大寺巡礼私記』によれば、建物は桁行11間、梁行4間の瓦葺で、本尊には六尺ほどの阿弥陀如来坐像と脇侍等身像があったとのことです。その後食堂に関する文献史料はみあたらず、いつまで存続したかは不明ですが、延宝2~4年(1674~1676)の作とされる『伽藍寺中并阿弥陀山之図』や元禄2年(1689)の伽藍絵図など、江戸時代の絵図には描かれていないので、この頃までには廃絶していたようです。
薬師寺食堂は、近畿大学と当研究所が、1969、1970、1974、1979年に部分的な発掘調査をしています。このうち1969年の調査では、基壇南面の中央階段、基壇地覆石および石組雨落溝の一部を発見し、基壇とその周辺の状況を明らかにしました。また、1974年の調査では、食堂西端部の礎石抜取穴などを検出しました。これらの調査成果から、基壇の規模は東西47.4m(160尺)、南北21.8m(74尺)で、建物は桁行11間(中央間のみ15尺、そのほかの柱間は12.5尺)、梁行4間(身舎2間14.5尺等間、廂12.5尺)、廂の柱から基壇の端までの寸法は四面とも10尺に復元されています。しかしながら、基壇および基壇外装の具体的な様相、基壇や建物の正確な規模等不明な部分も多く残っていました。
今回の調査では、食堂に関わる遺構のほか、食堂造営前の遺構や食堂廃絶後の遺構を検出しました。
現地表面下30~80㎝で検出しました。基壇は、南辺が中世に、東辺および北辺も近代の水田耕作や水路によって、大きく削平されています。基壇は最も残りの良いところで、地覆石の上面から約50㎝残存していました。基壇の築成は、瓦を含む土で整地したのちに、土と砂とを層状に積み上げてつき固めた様子が確認できます。これは版築という工法で、堅固な基壇を築くために用いられました。また、版築の底部で、地盤の軟弱な所には部分的に瓦を敷き、その上に版築をおこなっていた様子も確認できました。
基壇の縁辺部では、地覆石や階段、地覆石抜取溝などを確認しました。地覆石とは基壇外装の下部に据えられた石のことです。地覆石は凝灰岩で、南面と西面、北面西端部に残っており、東面と北面の一部では、地覆石の抜取溝を確認しました。地覆石の長さは60~90㎝、幅は20~35㎝と大きさにばらつきがあります。
基壇南面では、中央と東に階段がとりつくことを確認できました。いずれも最下段の凝灰岩しか残っていませんでしたが、中央の階段は、1970年の調査でも確認したものです。階段は、基壇地覆石を据えたうえで、約3.7mの幅で凝灰岩を約75㎝突出させています。西にも同様の階段がとりつくと思われます。北面にも十字廊にとりつく階段が想定されますが、その痕跡は確認できませんでした。
基壇南面では、石敷と石組の雨落溝を検出しました。雨落溝は屋根から落ちる雨水を流すための溝です。石敷や雨落溝には15~45㎝の玉石が用いられていました。石敷の幅は約75㎝で、雨落溝に向かって緩やかに傾斜しています。雨落溝の幅は、基壇南面の東端部で約50㎝あります。東・西面の雨落溝は、隣接する東・西僧房と共有しており、東面の雨落溝は、1969年の調査で石が抜き取られた状態で出土し、西面でも1974年の調査で確認しています。北面東半は水田耕作のため削平され、石敷や雨落溝の痕跡は確認できません。なお、南面の雨落溝および石敷の上からには、焼土とともに完形に近い丸瓦と平瓦がまとまって出土しました。瓦には、平安時代の軒瓦が含まれており、これらは食堂廃絶の様相を示す手がかりとして注目されます。
礎石はすべて抜き取られており、調査区内には残っていませんでしたが、基壇が比較的良好に残っている中央から西にかけて、礎石抜取穴を検出しました。礎石抜取穴の大きさは1.0~2.5mです。
調査区東半では、基壇が大きく削平されているため、礎石抜取穴は検出できませんでしたが、礎石下の壺地業を確認しました。壺地業とは、礎石下を掘り込んで埋め固めた工法のことです。1辺2.0~2.8mの大きな隅丸方形の掘方で、砂と土、瓦を層状に積む版築をおこなっています。壺地業は基壇版築の層を掘り込んでおり、廂部分では深く、身舎の壺地業は浅い傾向にあります。また壺地業から出土する瓦は、すべて薬師寺創建瓦です。
食堂は桁行11間、梁行4間の建物と判明しました。柱間寸法は、桁行が3.7m(12.5尺)等間、梁行は身舎2間が4.0m(13.5尺)、廂が3.7m(12.5尺)、廂の柱心から地覆の端までは3.3m(10.5尺)となります。また基壇は、東西が約46.9m(158.5尺)、南北が約21.6m(73尺)の規模とわかりました。
調査区東北部で、食堂造営前の掘立柱穴列を3条検出しました。これらはほぼ正方位にのっており、瓦を含む奈良時代の整地土を掘り込み、壺地業に壊されています。掘立柱穴列は建物になる可能性がありますが、食堂基壇土より下層にあるため、部分的に確認しているのみです。
基壇南部を破壊する大土坑を検出しました。大きさは東西約22m、南北約9mの東西に長い溝状の土坑です。南面の地覆石を一部壊しているものの、地覆石が土坑の南辺になります。深さは、残存基壇の上面から最も深い所で約50㎝ありました。土坑は、柱位置の部分が掘り残されて島状に突出しています。ここからは、奈良時代から鎌倉時代にかけての膨大な量の瓦や、13世紀末から14世紀初頭にかけての瓦器椀や土師皿などが出土しています。
近世の南北方向の土管暗渠を2条検出しました。東の土管暗渠1は約5.5m、西の土管暗渠2は約3.0m残存しています。いずれも南から北に向かって水を排水する装置です。
今回の調査では、膨大な量の瓦を中心に、土器、鉄釘などが出土しました。出土瓦には、古代から近代までの軒瓦のほか、鬼瓦、道具瓦、磚などがあります。また、大土坑からは、奈良三彩の小片も出土しました。
今回薬師寺食堂の発掘調査により以下のような成果が得られました。なお、遺構は一時期分しかなく、創建時のものとみられ、平安時代の再建時には、創建時の規模や位置を踏襲して建てられたと考えられます。
調査の結果、薬師寺食堂は東西46.9m(158.5尺)、南北21.6m(73尺)の基壇をもつ礎石建物で、建物の規模は、桁行11間、梁行4間、東西40.7m(137.5尺)、南北15.4m(52尺)であることが判明しました。この数値は、『薬師寺縁起』に記された創建時の食堂の規模に近似しますが、若干寸法が異なります。この点に関しては、さらに発掘成果の検討をすすめ、最終的な結論を得たいと考えています。基壇南面の階段や雨落溝などの遺存状態は良好で、階段が3ヶ所に設けられていたことがわかりました。
基壇築成の工程は、複雑ですが、現時点では以下のように考えています。①地山上に施した整地土の上に版築で基壇を築成する、②礎石を据え付ける位置に直径2~2.8mの大規模な掘方を掘削し、その中を版築する(壺地業)、③壺地業の上に礎石を据付、基壇上面まで版築をおこなう。壺地業や版築層に含まれる瓦はすべて創建期のもので、一連の工程と考えられます。ただし、②~③の工程に関しては、身舎と廂の壺地業の違いや礎石据付掘方の有無など、今後さらに調査をすすめる必要があります。また、同様の工法は、薬師寺中門でも確認されていますが、金堂や講堂では認められず、細かい版築を全面に施しており、施工方法に違いがあることが明らかになりました。
従来、食堂の造営や廃絶年代は不明確でしたが、今回の調査で、壺地業内で出土した土器や瓦の年代から、おそくとも奈良時代前半には造営が始まっていたことがわかりました。また、基壇南面の雨落溝上の瓦や、大土坑出土の土器の年代から、14世紀初頭までには食堂が廃絶していたこともわかりました。
食堂より古い掘立柱穴列を部分的に検出しました。柱穴列は基壇より下にあるため、部分的な確認にとどまりましたが、これらの遺構がほぼ正方位にのっていることや瓦を含む整地土を掘り込んでいることからも、薬師寺の造営に関連する仮設建物などの可能性があります。
以上のように、薬師寺食堂に関する様々な知見を得ることができました。その中でも建物と基壇の規模がほぼ確定したことは大きな成果です。薬師寺食堂は、南都の寺院において文献史料や古絵図でその規模がわかる食堂のうち、東大寺(東西196尺、南北98尺)、大安寺(東西145尺、南北86尺)に次ぐ大きさをもつとされてきました。今回、これを発掘調査からも裏付けるとともに、薬師寺食堂の具体的な様相が判明しました。また、食堂の発掘調査事例は、興福寺や西大寺、西隆寺などにあるものの数は少なく、今回の調査は古代寺院の食堂の造営方法や規模、構造などを知るうえでも貴重な成果となりました。
寺院 | 柱間(桁行x梁行) | 寸法(桁行x梁行) | 根拠 |
---|---|---|---|
薬師寺 | 11間x4間 | 137.5尺x54尺 | 発掘調査 |
法隆寺 | 102尺x57尺 | 『法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』 | |
興福寺 | 9間x5間 | 120尺x58尺 | 発掘調査 |
大安寺 | 145尺x86尺 | 『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』 | |
東大寺 | 11間x6間 | 196尺x98尺 | 『講堂院図』 |
元興寺 | 11間x4間 | 『堂舎損色検録帳』 | |
西大寺 | 7間x4間 | 110尺x60尺 | 発掘調査(部分)、『西大寺資財流記帳』 |
西隆寺 | 7間x4間 | 70尺x40尺 | 発掘調査(部分) |
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