2013(平成25)年7月6日(土)
調査地 | 京都市下京区小稲荷町22番地2他 |
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調査面積 | 約750m2 |
調査期間 | 2013年4月15日〜8月23日(予定) |
この地は、平安京内の南東部、平安京左京八条四坊八町にあたります。これまでに行った周辺の調査では、鴨川の氾i監などによって土地が削られたため、平安時代の遺構はあまり残されていません。
鎌倉時代には七条仏所があったとされる高倉通七条付近に、時宗(じしゅう)の金光寺(こんこうじ)が創建されます。江戸時代には寺域に火葬場も併設されていましたが、明治初年に廃止されています。 桃山時代、天下統一を遂げた豊臣秀吉は、聚楽第の造営や寺院の集中、新道の造作など、京都の大改造を行いました。その一環として、天正19年(1591)に、洛中を囲む御土居を築きます。御土居は外敵からの防御と、鴨川の氾i監から市街地を守る堤防としての役割がありました。その範囲は、東は鴨川、北は鷹ヶ峰、西は紙屋川、南は九条で、東西3.5km、南北8.5km、総延長22.5kmに及びました。江戸時代になると、開口部の新設、土塁の削平や堀の埋め立てなど、御土居は徐々に当初の姿を変えていきます。江戸時代の絵図の研究から、当地周辺では御土居の移設があったことが指摘されています。つまり、当初調査地の北200mにあった北東から南西方向の御土居が、寛永18年(1641)の渉成園(板殻邸、国指定名勝)の造営に伴って東に張り出し、七条通の南で屈曲するように付け替えられたと考えられています。また、調査地北側の現七条通のところには、高瀬川の舟入が造られます。調査地東側の細い南北道路は、その舟入と南の高瀬川をつなぐ水路の名残りです。
南半部と北半部に段差があります。北半部は土を積み上げた高まりであることから、すでに土塁本体は失われていますが、御土居の土塁部分の基底部だと考えられます。これは、前述した江戸時代に付け替えられたと考えられる御土居の一部にあたります。調査場所はその南東部にあたり、東西方向の土塁200mのうちの約60m分を検出したことになります。検出できたのは南北4m分で、基底部の南端部分です。本来、御土居は土塁とその外側にある堀とが一対となって築造されていましたが、付け替えられた御土居は、堀を伴わない土塁のみであったことがわかりました。土塁は、均一な砂質土層と砂礫を積み上げて造られています。前述のように土塁上部はすでに削られて残っていませんが、高さ0.6mが残っていました。
また、南側の裾部に沿って、幅約1m、深さ0.2〜0.3mの東西方向の溝を検出しました。この溝の下層からは江戸時代後期以降の遣物が出土しています。当初は御土居裾の排水路であったものが、宅地化が進むに伴い下水として利用されるようになったと考えられます。上層からは江戸時代末から明治にかけての遣物が多数出土しました。
なお、下層の調査により、当地は鴨川の氾濫原であったことがわかりました。また、御土居が造られる以前には耕作地として利用されていたことも判明しています。
調査区平面図(1:400)
土塁断面図(1:40)
平安京・御土居と調査地点図(1:100,000)
調査位置図(1:5,000)
調査区東半部 土塁基底部(南東から)
京都図屏風
元禄十四年實測大絵図(後補書題)元禄14年(1704)
元禄十四年實測大絵図(後補書題)元禄14年(1704)拡大
寛永十四年洛中絵図 寛永14(1637年)
寛永十四年洛中絵図 中井家作図 寛永14(1637年)
新板平安城東西南北町并洛外之図 承応3(1654年)
元禄十四年實測大絵図(後補書題)元禄14年(1701)
元禄十四年實測大絵図(後補書題)元禄14年(1701)拡大
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