平成25年8月3日
長山古墳(NGYK−1)現地説明会資料
堺市文化観光局文化部文化財課
長山古墳は、百舌鳥古墳群で最も海側(西側)の標高約4mに立地しています(図1)。墳丘は昭和初期までに大部分が削られており、その面影はありません。「(仮称)協和町西A建替住宅建設工事」に伴って、平成25年5月から発掘調査を実施したところ、墳丘の一部を確認することができました。
長山古墳は古くは「長塚山」「長塚」と呼ばれ、神功皇后の時代に活躍したとされる武内宿爾の墓と伝えられていました。江戸時代の享保9(1724)年に作成された絵図では、既に後円部は無くなっており、前方部のみが塚として措かれています。残っていた後円部も昭和3年の航空写真では削り取られていることが確認でき、地割や写真から前方後円墳の墳形と周濠の痕跡がかろうじて推測できるのみでした。
残された古地図や文献などの検討から、長山古墳は墳丘主軸が約40度東に傾く前方後円墳で、墳丘長110m、後円部直径56m、周濠を含めた全長156mの規模であったと推測されます(奥田豊・中井正弘1972「消えていた百舌鳥古墳群中の二大古墳」『古代学研究』64号)。この墳丘長は、百舌鳥古墳群中9番目の大きさです。
図1 百舌鳥古墳群分布図
調査は、3か所で行いました(図2)。このうちB地区は調査を終えて埋戻しています。本日ご覧いただくのはA・C地区の2か所です。
図2 長山古墳調査区模式図
北東側の調査区です。後円部の墳丘裾の手がかりとなる葺石の一部が見つかりました。ただし、上面は大きく地層が乱されており、古墳の表面は削られていました。
西側の調査区です。段状になった地山を検出したのみで、墳丘の大部分は壊されていました。前方部からくびれ部、後円部にあたる辺りと推測できますが、大きく削られており本来の形はわかりませんでした。
南東側の調査区です。この地区は他と比べて、遺構が良好に残存していました。
調査区の西寄りでは、墳丘裾の葺石を検出しました。葺石の基底石は直線的に並んでおり、長さ約16m、幅約1.4m、高さ約0.5mの範囲で確認しました(図3)。葺石が確認できた箇所は、墳丘の前方部東側裾部にあたります。石材は大部分が川原石で基底に据えた石はやや大きめですが、大きさは様々で揃っていません。よく見ると縦方向に一列に並んで見えるところがあり、葺石を葺いた区画割が読み取れます。葺石の傾斜角度は、約22度と緩やかです。
墳丘の外側は、地山が削り込まれて周濠が巡っていました。周濠は底の最大幅約15.7m、深さ約1.1mの規模で検出されました。底には粘土質の土が堆積していました。鎌倉時代の土器が混じることから、周濠はこの頃以降、徐々に埋まったと思われます。
主な出土遺物として、腕輪形石製品(車輪石)、埴輪(円筒埴輪、器財埴輪)があります。
車輪石は、墳丘裾の周濠埋土中より1点出土しました。破片となっていて全体の約1/3が残っています(図5)。車輪石は、オオツタノハと呼ばれる貝を輪切りにした腕輪が原型とされています。車輪石の表面には、貝の表面を模した放射状の挟りが削り出されています。裏面は平滑です。石材は緑色凝灰岩製です。一般的に車輪石は、遺体を納めた主体部周辺に納められる副葬品であることから、主体部が破壊されたのち周濠内に転落したものと考えられます。 埴輪は大部分が、墳丘裾部の周濠埋土や転落した葺石に混じって出土し、元々の位置を保っているものはありません。
種類としては、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪(図4)、盾形埴輪等があります。一部の埴輪は赤く塗られていました。
これまで絵図等でしか分からなかった長山古墳を、今回の発掘調査で具体的に確認することができました。出土遺物などから、4世紀後半に築造された前方後円墳と推測されます。
百舌鳥古墳群で最も古いとされている乳岡古墳とほぼ同時期で、百舌鳥古墳群中最古級の古墳と評価することができます。墳丘の大部分が平らに削られており、調査で判明した情報は限られていますが、百舌鳥古墳群の成立を探るうえで貴重な古墳であると言えます。
なお、長山古墳の形状や規模、築造技術等に関する資料を得るため、継続して学術調査を行う予定にしています。
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