2013年(平成25年)8月24日(土)
向日市教育委員会/公益財団法人向日市埋蔵文化財センター
所在 | 京都府向日市寺戸町芝山3−1・6ほか |
調査所管 | 向日市教育委員会 |
調査期間 | 2013(平成25)年7月1日〜8月30日(予定) |
調査機関 | 公益財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広) |
当センターでは向日丘陵古墳群の保存と活用の方法を探る目的で、寺戸大塚古墳、元稲荷古墳の範囲内容確認調査をすすめてきました。今年度より、五塚原古墳を対象に墳丘の遺存状況と範囲、内容の確認を実施することになりました。
五塚原古墳の調査は1967(昭和42)年に京都府教育委員会、1977(昭和52)年に京都大学考古学研究室が墳丘測量を実施しています。また、2000(平成12)年から二箇年をかけて立命館大学文学部が墳丘の発掘調査を実施しました。
これまでの調査成果からは、箸墓古墳をモデルプランとする最古型式前方後円墳のひとつと考えられてきました。墳丘の復原規模は全長91.2m、後円部径54m、同高8.7m、前方部長40.5m、同高2.1〜4.0m(くびれ部付近から前方部頂)に推定できます。段築成は後円部が3段、前方部は1段となります。前方部の形状はくびれ部側は直線的にのび、前端にむかってゆるやかな曲線を描きながらひらく、いわゆる「バチ形」を呈していた可能性が想定できます。さらに、くびれ部は幅が16mとなり極端に狭いうえに、高さは2.1mで前端にむかって4.0mまでせり上がります。細身で低平な前方部が特徴といえます。なお、墳丘の構築はほぼ全体が盛土で構築されていると考えられます。
今年度は東くびれ部に発掘区を設定し、墳丘の構築状況や裾位置を正しく把握するために調査を実施しています。
五色塚古墳の調査区配置図(1/500)
立命館大学文学部『五色塚古墳1・2次発掘調査概報』2,003年をもとに作成
図2 東くびれ部調査区以降配置図(1/80)
第一段斜面裾にめぐる基底石の外側には、低い亀の甲状に墳丘盛土がひろがっています。この上面には基底石より2m外側まで礫が分布しています。礫の隙間には盛土とよく似た精良な明茶褐色粘質土が詰まっており、初期に転落した茸石の集積とは考えがたく礫敷の可能性があります。
斜面長は後円部側で水平距離が3.5m、高さ1.8mになります。前方部では途中に平坦面は設けられていないため、水平距離は3.5m、高さ2.0mとなります。斜面の下半部に遺存する葺石の上端と斜面勾配が変化するところが一致していますが、その位置はくびれ部で高さ1.3m、東端では0.5mとなり東ほど低くなります。しかしこれは、墳丘の流失が場所によって異なることを示しており、現状の側面観は構築当時のものを反映してはいないと考えられます。葺石は概ね長さ10cm大のチャートや砂岩を使用し、基底石は長さ20〜30cmサイズの扁平な石材を縦長に列べています。前方部の墳頂付近では10cm未満と小粒なものが使用されています。くびれ部付近では基底石の上に小口積みされた葺石が良好に残されています。しかし、他の場所では外側に大きく迫り出して崩れている箇所が多く見られます。
後円部北側で実施された第1次調査の成果では、後円部の第二・三段目の平坦面では盛土を掘りくぼめて礫を敷き詰めた礫敷が確認されています。東くびれ部でも精良な盛土の上面に分布する礫群が確認されたため、礫敷がめぐるものと判断されます。平坦面の幅は約2.0mで、緩やかな傾斜を有しています。後円部側の平坦面と前方部頂の高さは標高63.20m付近の値を示しておりほぼ同じであるといえます。したがって、前方部の側面に平坦面はつくられていないことから、後円部の第一段平坦面はくびれ部で収束し前方部へはのびないことが明らかとなりました。
斜面長は東端で1.5m、西側で3.0mまでを検出しました。葺石はくびれ部が最も残りがよいものの、全体的に変形や崩壊が進んでいます。基底石はわずかに迫り出している箇所がありますが、ほぼ原位置を留めています。くびれ部裾の基底石は前方部側で折れ曲がります。さらにのびる基底石とその上部の葺石は前方部に附属する構築物ではなく、前方部から埋葬施設までをつなぐ「葬列の道」に伴うものと考えられ、いわゆる隆起斜道(りゅうきしゃどう)にあたるものとみられます。
前方部頂から後円部へ上昇するスロープの側面に葺石が施され、くびれ部からつづく基底石が並んでいます。基底石はくびれ部よりも小さくなりますが、屈曲点から南へ2.0mまでのびています。側面の高さはくびれ部で1.4m、前方部頂で収束しています。斜道の幅は末端で約6.0mに復原が可能です。
図3 隆起斜道の位置
※箸墓古墳の側面図は近藤義郎『前方後円墳観察への招待』青木書店2000年を改変
古墳に関係する遺物は全く出土しませんでした。これまでの調査でも未確認であり、墳丘に埴輪や土器をならべ置かれていた可能性はきわめて低いものと考えられます。元稲荷古墳とくらべても遺物の希薄さが際立ちます。なお、墳丘の流土中より7世紀後半の須恵器や瓦片が少量出土しています。これは、はりこ池をはさんで北岸に所在した宝菩提院廃寺に関わる遺物とみられます。なお、転落石に混じって弥生時代の太形蛤刃石斧の破片が2点出土しました。石材採取地近くにあった弥生時代の遺跡に伴う遺物とみられます。
今回の調査成果については次の三点にまとめることができます。
①と③については、今後の調査でさらに確認が必要となります。①については現状で一定の幅をもつ平坦面の存在を考えることは難しいと判断されます。ただし、狭小な平坦面が取り付いていた可能性はあるため十分に注意が必要です。
②では、前方部頂よりも高い場所で後円部と直交する方向に斜面が検出されたことで、これを「隆起斜道」に伴う構築物と判断しました。最古型式の大型前方後円墳で隆起斜道が発掘で確認された事例はほとんどありません。後円部の段築が全周するのか、「埋葬祭祀に使われた道」が整備されて痕跡を留めるのか、前方後円墳の調査研究の課題とされてきました。五塚原古墳にみえる「隆起斜道」の構造は、まだ見ぬ大王墓級古墳の「隆起斜道」を十分に想起させるに足る発見と考えられます。墳頂でおこなわれた儀式の解明に向けて、今後、「隆起斜道」の構造解明に大きな期待が寄せられます。
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