興福寺西室の発掘調査 現地説明会 資料

2013年(平成25年)9月28日(土)
法相宗大本山 興福寺
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所都城発掘調査部
〒634−0025奈良県檀原市木之本町94−1 http://www.nabunken.jp/

概要

興福寺西室にしむろは720年代に建立され、以後焼失と再建を繰り返し、近世に廃絶しています。本調査では西室南半分の礎石・礎石据付穴などを検出し、創建当初の建物規模と、再建の際には創建建物の位置・規模を踏襲していることがわかりました。建物規模は南北約62.7m、東西約11.8m、桁行10間×梁行4間に復元され、『興福寺流記るき』などを参照に桁行11間とした従来の復元案とは異なる成果が得られました。

1.調査の経緯

興福寺は藤原不比等ふひとが奈良時代はじめ(8世紀前半)に現在の地に建立しました。かつては中金堂院を中心とする大伽藍を誇りましたが、度重なる火災に遭い、再建が繰り返されてきました。

現在、興福寺では「興福寺境内整備基本構想」(1998年)に基づき、寺観の復元・整備が進められています。この整備事業にともない、奈良文化財研究所では1998年以来、中金堂院や南大門などの発掘調査を継続しておこなっています。本調査もその一環として、2013年6月3日より調査を開始しました。調査面積は985m2で、調査は現在も継続中です。

2.興福寺西室(西僧房)について

僧房とは僧侶が生活する建物で、桁行の長い建物を仕切って多くの小部屋を造ります。大寺では梁行の大きな大坊たいぼうと、梁行の小さな小子房しょうしぼうとが、柱筋をあわせて並行して建てられていました。

興福寺は中金堂と講堂の東・西・北をコの字型に取り囲む三面僧房を有しており、西僧房は「西室」と呼ばれています。西室の建立の年代はあきらかではありませんが、諸資料から中金堂院の他の建築と同じ720年代と考えられます。

西室は、建立以後8度罹災したとみられます(表1)。最後の焼失は享保2年(1717年)で、以後再建されることはありませんでした。また、江戸時代中頃の絵画資料には、西室は描かれるが小子房は描かれていないものがあり、小子房は西室より早く廃絶していたとみられます。

表1 興福寺西室略年表
和暦西暦事項典拠
 720年代創建 
元慶2878焼失『日本三代実録』
元慶5881再建『日本三代実録』
永承11046焼失『造興福寺記』『扶桑略記』ほか
永承31048再建『造興福寺記』『扶桑略記』
康平31060焼失『造興福寺記』『扶桑略記』『三会定一記』
治暦31067再建『興福寺流記』
永長11096焼失『中右記』『後二條師通記』ほか
嘉承21107上棟『中右記』
治承41180焼失
(平重衡の南都焼討)
『玉葉』
 1200頃再建『春日大社文書』16
建治31277焼失『興福寺略年代記』ほか
弘安71284再建『三会定一記』
嘉暦21327焼失
(南都僧都の争)
『大乗院日記目録』ほか
嘉吉2頃1442頃再建『大乗院日記目録』
亨保21717焼失『南都年代記』

参考文献

  • 薮中五百樹「奈良時代に於ける興福寺の造営と瓦」『南都仏教』64、1990年。
  • 薮中五百樹「平安時代に於ける興福寺の造営と瓦」『仏教芸術』194、1991年。
  • 薮中五百樹「鎌倉時代に於ける興福寺の造営と瓦(上)」『仏教芸術』257、2001年。
  • 薮中五百樹「南北朝・室町時代に於ける興福寺の造営と瓦」『立命館大学考古学論. 集3-2』2003年。
  • 薮中五百樹「安土桃山・江戸時代に於ける興福寺の造営と瓦」『帝塚山大学考古学. 研究所研究報告6』2005年。
  • 太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』岩波書店、1979年

3.検出遺構

検出した主な遺構は以下の通りです。

西室

礎石および礎石据付穴・抜取穴を確認しました。調査前にすでに地表に露出している礎石もありました。礎石は大きさが長径約90〜115cmの安山岩製の自然石で、柱座などの造り出しはありません。調査区内の礎石のうち8石は創建当初の位置を保っているとみられます。また、桁行の各柱間に2基ずつ小型の礎石および礎石据付穴・抜取穴を確認しました。小型の礎石の大きさは長径が約45〜60cmです。この小型の礎石の多くはいずれかの時期の再建の際、据え直したものとみられます。上面が赤変しているものもあり、火を受けた痕跡とみられます。

本調査区内では西室のうち桁行7間×梁行3間分を検出しましたが、調査区内の遺構と調査区外の地表に露出している礎石および資料から、西室の全体は南北約62.7m(212尺)、東西約11.8m(40尺)、桁行10間×梁行4間に復元されます。柱間の寸法は、桁行の南端2間が約4.75m(16尺)、以北が約6.65m(22.5尺)等間、梁行は約2.95m(10尺)等間です。桁行には柱間を三等分する位置に間柱を2本ずつ入れていたとみられます。

西室は『興福寺流記』に柱間が11間と記されており、従来は桁行11間に復元されてきましたが、従来の復元案とは柱割が異なることがわかりました。

西室基壇

西室の基壇は、固い礫層の地山を削り出しており、一部ではその上に積み土を確認しました。拡張区(東)で基壇外装とみられる凝灰岩を確認しており、詳細は調査中です。

土管暗渠1

調査区を南北に縦断する暗渠。深さ20〜30cmの素掘り溝に瓦質の土管を設置し、その上に平瓦・丸瓦を乗せ、土で埋めて暗渠としています。土管は繋ぎ口が2種類あり、15〜16世紀のものとみられます。調査区内にはこの暗渠からの支線である土管暗渠2・土管暗渠3や、瓦を使用する瓦暗渠など、複数の暗渠が確認されています。

土器溜り1〜3

調査区の北端にある3基の浅い土坑。いずれも埋土から大量の土師器が出土し、まとめて穴に廃棄したものとみられます。時期は鎌倉時代から室町時代の3時期にわたります。

穴1

調査区の北西にある小土坑。性格は不明ながら、奈良時代から平安時代の須恵器の瓶と鉢、丸瓦が詰められていました。

なお、調査区の西半分は大きく削平を受けており、小子房については、今のところ調査区内に明確な遺構は確認できていません。

4.主な出土遺物

土器

調査区の全域で、奈良時代から近代までの土器、陶磁器類が数多く出土しました。最も出土量が多いのは鎌倉時代から江戸時代にかけての「カワラケ」と呼ばれる土師器の小皿です。

調査区の全域で、奈良時代から近代までの瓦が出土していますが、出土量は瓦葺建物の調査としてはあまり多くありません。各時代の軒丸瓦・軒平瓦以外にも鬼瓦や磚が出土しています。

銭貨

調査区の全域で、寛永通宝などの江戸時代以降の銭貨が出土しています。

5.まとめ

本調査の調査成果は以下の通りです。

①西室の創建当初の建物規模がわかる礎石、礎石据付穴などの遺構を確認しました。再建の際には創建建物の位置と規模を踏襲していることが判明しました。

建物規模は南北約62.7m、東西約11.8m、桁行10間×梁行4間で、柱間寸法は桁行の南端2間が約4.75m(16尺)、以北が約6.65m(22.5尺)等間、梁行は約2.95m(10尺)等間に復元されます。『興福寺流記』などから桁行11間に復元されてきた従来の復元案とは異なる柱割であることがあきらかになりました。

②調査区の西半分は大きく削平を受けており、小子房については、今のところ調査区内に明確な遺構は確認できていません。

③西室および小子房の廃絶時期は、今後の調査や遺物の詳細な検討によりあきらかにしていく予定です。


図1 興福寺伽藍配置図と今回の調査区(『奈良六大寺大観 興福寺一』挿図1に加筆)


図2 遺構平面図(1:200)

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