2014年(平成26年)2月16日(日)
上牧町教育委員会
平成23年より上牧町上牧に所在する久渡古墳群の調査を行ってきました。平成24年度からは国庫補助事業として文化庁・県教育委員会の指導のもとに3ヵ年の計画で確認調査を行うこととなり、今年度は久渡古墳群第4次調査として、久渡2号墳の調査を実施しています。久渡古墳群では7基の古墳が知られていますが、久渡2号墳は、平成23(2011)年春に行った調査によって、初めてその存在が確認された古墳です。
久渡2号墳は、久渡古墳群の所在する久渡山とよばれる丘陵の南斜面に位置しています。墳丘は径約16m、高さ約3mの円墳で、古墳の背後にあたる北側には、東西幅約30mの大きな周溝が明瞭に残っているのが特徴です。
南に開口する横穴式石室であることが確認されました。石室内の擾乱土中には大量の輝石安山岩・凝灰岩の破片が含まれていました。後世に石室が壊され、石材が加工されて運び出されたことを示していますが、その時期については不明です。また床面直上において、中世土器がかなり出土しているため、おそらく石室は中世以降には開口していたようです。
輝石安山岩の加工のみられない自然石で築かれています。この石は非常に硬く、またやや赤みを帯びています。古墳の石材は奥壁とそれに続く右側壁2個、左側壁1個の基底石が残っていました。また、天井石と思われる長さ1.6m、幅1.0mの大型の石材も落ち込んだ状態でみられました。
石室は両袖式で、石室の大きさの推定値は、玄室長約4.0m、同幅約1.9m、羨道長約5mで、石室の全長は約9mと思われます。
石室の床には全面にわたって約20cmの厚さで凝灰岩片が敷きつめられていました。その破片の中には加工痕や面をもつものも含まれ、大きさもさまざまです。床数は本来さらに厚かったようです。そして羨道部の床面下からは埋葬時に行われた葬送の儀礼において使用された嚢・高杯などの須恵器片が破片となって多数出土しました。また石室の南端中央では、石組みの排水溝が延びていることが確認されました。
石室・排水溝の輝石安山岩は北西約4kmの王寺町・明神山付近、石室床面の凝灰岩片は酉約3kmの香芝市・高山石切場遺跡付近で産出するものと思われます。
久渡2号墳は最近、確認された古墳ですが、奈良県において飛鳥時代の主要古墳が新しくみつかることは近年では珍しいことといえます。
古墳の立地は、近くの広陵町・牧野(バクヤ)古墳と共に単独に位置することが特色です。しかも飛鳥時代特有の大きな周溝が背後にめぐっていることは、この古墳の存在をかなり目立たせるものとなっています。
さらに石室床において一面に凝灰岩片を厚く敷いていることは、今のところ例をみることができません。赤褐色の石室の石材と共に灰白色の床面によって、石室内はかなり荘厳化されたようです。久渡古墳群のある馬見丘陵は、もともと石が産出しないところです。2号墳で使われた大量の石材は、西に流れる葛下川を越えた対岸の明神山・高山石切場遺跡という遠方より運ばれてきたものと思われます。
また、その用途は不明ですが、飛鳥時代の寺院に使われる平瓦が同じ時代の横穴式石室墳でかなり見つかったことも例がありません。
久渡古墳群の付近は舌代の葛下(カツゲ)・広瀬郡にあたり、この地域には飛鳥・奈良時代に皇室の所領が広がり、陵墓も存在したことが古代の木簡や文献で知られています。久渡2号墳は、この奈良盆地西部の馬見丘陵付近では数少ない飛鳥時代の比較的大型の特徴的な古墳であり、被葬者はかなり高位の人物であったと思われます。
久渡古墳群は画文帯神獣鏡を出土した古墳時代初頭の3号墳から、飛鳥時代の2号墳まで、長い時期にわたって、特色ある古墳が築かれた例のない古墳群であることが明らかになりました。今回の調査で久渡古墳群の重要性がさらに高まったといえます。
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