平城宮第一次大極殿院の発掘調査(平城第520次調査) 現地説明会 資料

2014年(平成26年)3月8日(土)
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部

調査地奈良市佐紀町(平城宮第一次大極殿院)
調査主体奈良文化財研究所 都城発掘調査部
調査面積476m2(東西34m x 南北14m)
詞査期間2014年1月7日〜(現在継続中)

調査の概要

今回の平城宮第一次大極殿院へいじょうきゅうだいいちじだいごくでんいんの発掘は学術調査で、調査の結果、奈良時代後半の宝幢ほうどう四神旗ししんき(以下、幢旗どうきと記します)とみられる遺構、大規模な整地と礫敷れきじきを見つけました。また奈良時代前半の第一次大極殿院の礫敷、南北通路及びその西側溝も確認しており、平城宮の中枢部に関わる多くの知見を得ることができました。

1.平城宮第一次大極殿院

奈良時代の前半には、平城宮の正門である朱雀門すざくもんの真北に大極殿が存在していました。大極殿は、天皇即位や元日朝賀がんじつちょうがなど、もっとも重要な国家的儀式がおこなわれた建物です。天平てんぴょう12年(740)には、都が恭仁京くにきょうへ遷され、大極殿も移築されたことが知られています。天平17年(745)に、都は再び、平城京へ戻ってきましたが、このときには、大極殿は平城宮内の東側の地区に新しく建てられました。そのため平城宮には奈良時代前半と後半の2つの大極殿があり、奈良時代前半の第一次大極殿は平城遷都千三百年にあたる2010年に建物復原がおこなわれています。この第一次大極殿を囲む東西約18m、南北約320mの区画は第一次大極殿院と呼ばれています。天平17年(745)の平城京への遷都後には、この地区は『続日本紀しょくにほんぎ』などにみえる「西宮」という宮殿として整備され、のちに称徳天皇しょうとくてんのう内裏だいりとして使用し、神護景雲じんごけいうん4年(770)に、ここで亡くなりました。その後、平安時代初期には平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうによって再整備され、居所として用いられたとされています(【図1】)。

図1
図1 平城宮(上 奈良時代前半 下 奈良時代後半) 図2 第一次大極殿院と今回調査区

奈良文化財研究所では、1959年以来、継続的に第一次大極殿院の調査をおこなってきました。今回の調査区と大極殿院中軸線を挟んだ東西対称の位置も第72次調査(1971年)で発掘しており、東西に長い楕円形の遺構が東西に3基、南北2列ならぶことが明らかとなっていました。当時は、他に類似した発掘事例がなく、これまで桟敷さじき風の遺構と解釈し、遺構の時期も平安時代初期としてきました。

その後、平城宮第二次大極殿院や長岡宮大極殿前庭の調査により、元日朝賀や即位儀礼などの儀式の際に立てられた幢旗の遺構が発見され、第72次調査の遺構がこれらと似ていることから、第一次大極殿院の時期の幢旗の可能性が指摘されるようになりました。こうした背景を踏まえて、今回の調査は、幢旗の可能性のある遺構の確認と、その機能、及び時期の再検討を主な目的としたものです。また奈良時代前半の第一次大極殿院の中軸付近の様相の解明も目的としています。

今回の調査地は、第72次調査(1971年)と第217次調査(1990年)との両調査区に挟まれた場所を対象としており、調査面積は476m2(東西34m×南北14m)です(【図2】)。昨年12月に予備作業をはじめ、1月7日から調査を開始しました。

図2
図2 第一次大極殿院と今回調査区

2.主な検出遺構

主な検出遺構は、奈良時代前半(第一次大極殿院)、奈良時代後半(西宮)、平安時代初期(平城太上天皇の宮殿)以降のものです(【図3・4】)。以下、古い時期の遺構から順に記します。


図3 平城第520次調査 遺構平面図


図4 平城第520次調査および周辺の遺構平面図(1:600)

奈良時代前半(第一次大極殿院の時代)

礫敷広場

第一次大極殿院の時期の礫敷を平面の一部と排水溝や断ち割り調査の断面で確認しました。調査区の大部分で、元の地形の上に直接、径3cm程度の礫を5〜10cmの厚さで敷いていますが、元の地形の起伏を均すため、一部の窪んだ部分では整地しています。南に向かって緩やかに傾斜し、排水したと考えられます。

南北通路・南北通路西側溝

調査区東北部の排水溝の断面で南北溝を確認しました。第一次大極殿院の礫敷を掘り込んで設けられています。幅約1.5m、深さ約15cm。第一次大極殿院の区画中軸を挟んだ対称の位置で、同様の南北溝を検出しており(1971年)、これを第一次大極殿院南門から大極殿へ至る南北通路(幅約37m、125尺)の東側溝と想定していました。今回の調査で、初めて西側溝を検出したことで、ほぼ想定していた規模の南北通路の存在が確かめられました。なお、通路部分とそれ以外の部分で舗装の違いは確認できません。

奈良時代後半(西宮の時代)(【図5】)


図5 西宮イメージ図(『地下の正倉院 平城宮第一次大極殿院のすべて』)

礫敷広場

調査区全休に広がる礫敷で、奈良時代前半の礫敷の上に、厚さ約5cmの整地を広範囲におこない、その整地の上にさらに径5cm程度の礫を5〜10cmの厚さで敷いています。南に向かって緩やかに傾斜し、排水したと考えられます。

幢旗1・2

調査区のほぼ中央で、東西に5基並ぶ柱穴列を、南北2列検出し、調査区東方の第72次調査と合わせて、各列7基ずつであることが確定しました。柱間寸法はともに約6.0m(20尺)等間で、幢旗列1・2は、約3.8m(13尺)離れています。柱穴は東西に細長い楕円形で、北側の幢旗列1で東西約3.0m、南北約1.2m、南側の幢旗列2で東西約3.0m、南北約1.0mです。それぞれ楕円形の柱穴の中に3つの抜取穴ぬきとりあながあり、それぞれの抜取穴の間隔は約1.0mです。柱径は約25〜30cmと推定され、掘方ほりかたの深さは約1.0mです。これらは、幢旗の遺構と考えられますが、詳しくは後述します。

柱穴

調査区の西北部で柱穴を検出しました。掘方は一辺約1.5mの隅丸方形すみまるほうけいで、掘方の深さは約30cmであり、柱の部分のみ約80cmの深さとなっています。現状では、これと組み合う柱穴を検出しておらず、遺構の性格は不明です。

平安時代初期(平城太上天皇の宮殿の時代)以降

石敷列

調査区の西北部で、凝灰岩の切石の石数列を約4mにわたって検出しました。凝灰岩は幅約50cmで、二上山にじょうざん産と春日山地獄谷かすがやまじごくだに産と推定されます。第一次大極殿院の区画の中軸を挟んだ対象の位置でも同様の安山岩の石数列を検出していますが、これらの遺構の性格は不明です。

南北溝

調査区の北西部、石敷列の下層で、幅約40cm、深さ約15cmの素掘りの南北溝を約5mにわたって検出しました。調査区の北方へ延びると推定されます。

東西溝

調査区のほぼ中央で、幅約40cm、深さ約15cmの素掘りの東西溝を約33mにわたって検出しました。調査区外の東方へ延びています。南北溝と接続する可能性があります。

建物1

第72次調査で桁行6間分を検出していた東西棟掘立柱建物の延長を、調査区の東南部で検出しました。柱間寸法は桁行約2.7m(9尺)等間,梁行約2.4m(8尺)等間。今回の調査で、建物規模が桁行7間、梁行2間と確定しました。

建物2

調査区の西南部で検出した東西3間以上、南北2間以上の掘立柱建物。柱間寸法は均一ではなく、柱穴は径約30cmの小さい円形で、浅い遺構です。中軸を挟んだほぼ対称の位置で、同様の建物の遺構を見つけています。

建物3

調査区の東北部で検出した東西4間の掘立柱建物。柱間寸法は約3.0m(10尺)等間。調査区の北方に展開すると推定されますが、塀の可能性もあります。

3.出土遺物

今回の調査区では、奈良時代の土器片・瓦片のほか、鉄釘片2点なども出土していますが、出土遺物は全体的に少量です。

4.幢旗遺構について

遺構の特徴

今回、検出した遺構は、東西に細長い楕円形の柱穴で、柱間寸法は約6.0m((20尺)等間です。第72次調査で検出していた遺構と合わせて、計7基の柱穴が2列並び、中央のものはこの区画のほぼ中軸線上に位置すること、それぞれの柱穴に3本の柱が立てられていたこと、しかも南北の柱穴列で柱穴の埋土や規模が異なることが、今回の調査で明らかとなりました。

これまでは、第72次調査の成果をもとに、南北に柱筋が揃い、しかも柱穴に立つ柱を1本とみていたため、今回全貌が明らかになった南北2列の柱列を一連のものと捉え、桟敷風の遺構と解釈してきました。しかし、東西に長い楕円形の柱穴が7組でセットとなるという特徴は、平城宮第二次大極殿院や長岡宮大極殿前庭で検出された幢旗とみられている遺構と共通します。また柱穴の様子の違いは、南と北の柱穴列が別々の遺構であることを示すと考えられます。

文献・絵画資料の幢旗

延喜式えんぎしき』によると、元日朝賀には、大極殿から見て、中央に烏形うぎょうの幢、左(東)側に日像にちぞうの幢、さらに朱雀すざく青龍せいりゅうの旗、右(西)側に月像がつぞうの幢、さらに白虎びゃっこ玄武げんぶの旗、合計7本の幢旗を立てるとされています。また幢旗の柱の相互間隔は「二丈」(6m)と定められています。これらの『延喜式』に記された幢旗の数、相互の間隔は、今回の発掘の成果と一至します。このほか、『続日本紀しょくにほんぎ』にも大宝元年(701)の元日朝賀の際に、藤原宮で同様の7本の幢と幡(旗)を立てたという記述が確認できます。

また、時代は下りますが、院政期の儀式の様子を描いていると考えられる「文安御即位調度図ぶんあんごそくいちょうどず」(【図6】)には幢旗の姿が描かれています。これによると、幢旗はそれぞれ中央の柱と2本の脇柱を持つ構造で、高さは約「三丈」(9m)とされています。回検出した遺構にも、3本の柱が立てられたことが確認でき、これと一致します。

図6 宝幢・四神旗(幢旗)の姿(神宮文庫蔵「文安御即位調度之図」による)

2時期の幢旗遺構

以上のことから、今回の調査と第72次調査で検出した遺構は、文献や絵画資料の幢旗に関する記述や描写と一致する点が多く、2時期分の幢旗の遺構の可能性が極めて高いと考えられます。なお、『続日本紀』によると、西宮では、天平神護てんぴょうじんご元年(765)に称徳天皇が朝賀を受けており、神護景雲じんごけいうん3年(769)に法王であった道鏡どうきょうが大臣以下の拝賀はいがを受けています。ただし、これら以外にも、西宮で幢旗を用いる儀式がおこなわれた可能推もあります。今回の調査と第72次調査で見つかった幢旗の遺構は2時期分あり、文献資料に記されない儀式も含め、いずれかの儀式で立てられた幢旗の遺構の可能牲が考えられます。

5.まとめ

現時点において、主に以下の3点が明らかとなりました。

①西宮の幢旗遺構

今回の調査によって、東西に長い楕円形の巨大な柱穴が東西に7基並び、各柱穴に3本の柱が立つこと、東西の柱穴の間隔は約6.0m(20尺)等間であることが明らかとなりました。これらの特徴は、『延喜式』に記された幢旗の数、間隔や「文安御即位調度図」に描かれた姿と一至します。平城宮中央区で、初めて幢旗とみられる遺構を確認でき、西宮における重要な儀式に幢旗が用いられたことを考古学的に裏付けることができました。

②西宮のための大規模な造成

西宮(称徳天皇の宮殿)の造営時には、第一次大極殿院の礫敷の上に広範囲で整地を施し、新たに礫敷をおこなっており、入念な整備がなされていたことが確認できました。

③第一次の大極殿院の南北通路とその西側溝

これまでにも、第一次大極殿院南門から大極殿まで延びる南北通路とその両脇の側溝が想定されてきましたが、今回の調査で、初めてその西側溝を確認したことで、南北通路であることが確定しました。これにより、第一次大極殿院の広場中軸付近の様相を考えるうえで貴重な知見を得ることができました。

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