御土居跡 現地説明会

開催日
2016年(平成28年)11月12日(土)
調査機関
(公財)京都市埋蔵文化財研究所

御土居跡発掘調査現地説明会資料

(公財)京都市埋蔵文化財研究所
2016年11月12日

調査地 京都市北区紫野花ノ坊町31番地ほか
調査面積 約1.161m2
調査期間 2016年9月1日-12月3日

はじめに

今回の発掘調査は、市営住宅建設工事(平成29年夏頃着工予定)に伴い実施したものです。調査地は秀吉が造営した御土居西辺の北部に位置しています。調査区は道路を挟んで南北2つに分かれており、北区の南半部は調査が終了し、現在は北区の北半部と南区を調査中です。今回の調査では御土居の堀・土塁・暗渠が見つかりました。

御土居について

天正19年(1591)に行われた御土居の築造は、聚楽第・方広寺の建設、寺町の整備と並んで豊臣秀吉が京都で行った代表的な事業の一つです。御土居の範囲は、西は紙屋川、北は鷹峯、東は鴨川、南は東寺までで、東西約3.5km、南北約8.5km、全長約22.5kmにもわたります。御土居築造の目的には諸説ありますが、京都を土塁と堀で囲むことで、その内側(洛中)と外側(洛外)が明確になりました。

調査地の御土居については、元禄15年(1702)に作成された『京都惣曲輪御土居絵図〜(京都大学総合博物館蔵)から当時の状況を知ることができます。また近現代の地図を確認すると、明治35年(1902)から昭和15年(1940)の間に土塁が壊されていることがわかります。

発掘成果

【北区】

調査区の東側で御土居の土塁、西側で堀が見つかりました。検出長は約44mです。土塁はほとんどが後世の削平によって失われていましたが、南北方向の堀の西肩部・土塁(盛土の一部)・犬走・土塁の裾部などを確認しています。

堀は検出幅約8mで、深さは4m以上で、底は未確認です。西斜面の傾斜角度は44°になります。犬走は幅約2.6mで、わずかに西側に傾斜する平坦面を形成しています。土塁は裾部が高さ約1.8m分残存していました。土塁の立ち上がり傾斜角度は約45°です。土塁と犬走は、土を積んで構築されています。堀は土塁の構築土とよく似た土で東側から埋められていることから、土塁を崩して埋めたと考えられます。出土遺物から近代になって埋められたことがわかります。

また、土塁と犬走の構築土下層では、12世紀初頭の墓を検出しました。南北2.6m、幅0.3m以上の長方形の土坑で、北側に土師器皿が6枚まとまって出土し、釘が2点出土しました。木棺を収めた墓と考えられます。

図1平安京・御土居と調査地点図(1:100,000)

【南区】

御土居の土塁部分が見つかりました。検出長は南北約10mです。土塁はほとんどが後世の削平によって失われていましたが、調査区南端で土塁基底部を東西に横断する暗渠(溝)を検出しました。暗渠は土塁構築土の上から開削されており、幅1.5mの溝の中央に幅0.4mの溝をさらに掘削して拳大の川原石を充填しています。西側の堀へ向かって緩やかに傾斜しており、西側の堀まで突き抜けていたものと考えられます。

まとめ

今回の調査では、御土居北西部の御土居の構築方法について知見を得ることができました。従来この部分の土塁は、西側を流れる紙屋川によって形成された河岸段丘の段丘面の上にだけ、盛土をして構築していたと考えられてきました。これは段丘の高低差を利用して御土居造営の効率化を図るためと理解されています。しかし今回の調査では、やや緩やかな自然地形の斜面に対して急勾配の土塁を構築するため、斜面の一部を埋め立て土塁と犬走を構築していることがわかりました。これまで考えていたよりもさらに大きな土木工事が行われていたのです。さらに、排水施設(暗渠)を確認しました。御土居暗渠としては北野天満宮境内に残るものに続く2例目の発見です。これまで謎であった御土居の排水構造の解明に大きな意味を持つものと考えられます。

また、平安時代の墓を確認することもできました。この地は平安時代以降、蓮台野と呼ばれる葬送の地であり、天皇陵も周辺に点在しています。御土居以前の土地利用を解明する手がかりを得ることができました。

発掘現場写真

OLYMPUS E-M1 + ZUIKO DIGITAL ED 9-18mm F4.0-5.6で撮影

展示パネル

OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影

主催者説明ビデオ

iPhone 6sで撮影