- 開催日
- 2018年(平成30年)9月1日(土)
- 調査機関
- 関西文化財調査会
平安京左京四条三坊十四町 資料
平成30年7月9日より平安京左京四条三坊十四町の発掘調査を進めてまいりましたが、このたび安土桃山時代末期頃の濠を確認いたしました。
濠は北西から南東へ伸び、途中で屈曲して東西方向より少し南へ傾いて東へ伸びます。濠は幅4m、深さは肩口から1.4〜1.7mで、断面形は逆台形です。濠の底には礎石と考えられる石を2個所で確認しています。橋脚があったかもしれませんが確認はできていません。通常の構の濠とよく似た濠ですが、今回検出した濠は、斜め方向の溝と東西方向の溝の合流地点なのか、多角形の濠の一部なのかは角を一個確認しただけですので、明確な結論はまだ出ていません。
豊臣秀吉が京都を再開発するため、京内の多くの寺院を寺町へ強制的に移動させ、空いた土地に短冊形の町割を実施しました。このとき移動したお寺の一つに法然寺があります。法然寺は烏丸錦にあったとされていますが、烏丸通りの西にあったのか、東にあったのか正確な位置は不明なのです。町名の由来を考えると、東側にあっても良いのですが明確な根拠はありません。法然寺と今回検出した濠の関係を解明するのは今後の課題です。今回検出した濠が埋められたのは、出土遺物から年代を推定すると、1590年前後と推定できます。法然寺が移動したのは1591年なので、濠が埋められた年代と近接しています。この地に法然寺があったとすると、濠と法然寺の関係は明確なのですが、残念ながら確定する根拠がないのです。
町中に勝手に濠をほり、経済活動に支障が出るような状態から整然とした短冊形の町割りに変化し始めたのが1591年頃の京都の実態なのです。
荒れ果てた室町時代後半の京都から、新しい京都に生まれ変わる変換点に今回発見した濠は埋められているという点で、貴重な資料です。濠の中から出土した遺物は質素な日常生活用品が多く、当時の生活内容を示す良好な資料です。1点だけですが磚が出土しています。
遺構の写真
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OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影
展示遺物の写真
OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影