史跡西寺跡・唐橋遺跡 現地説明会

現地説明会日時
2019年(令和元年)10月26日(土)
調査機関
京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課
所在地 京都市南区唐橋西寺町
調査機関 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課
調査期間 令和元年9月30日
~11月1日(36次(講堂跡))
~11月15日(37次(五重塔跡ほか))
調査面積 約152m2(36次調査)・約174m2(37次調査)
調査要因 西寺跡範囲確認調査(文化庁国庫補助事業)

1.はじめに

西寺は,平安京遷都(794年)に伴い,国家鎮護ちんごのために東寺とともに造られた国営のお寺(官寺)です。平安京の南辺にあたる九条大路に南大門を開き,その範囲は東西二町(約250m)・南北四町(約510m)に及びます。大正10年(1921)にコンド山を中心に国の史跡に指定され(現唐橋西寺公園一帯),その後の発掘調査で,南大門,中門,金堂,僧房,食堂じきどう等が確認されたため,昭和41年(1966)に周辺部分が追加指定されました。これまでの発掘調査成果から,朱雀大路を挟んで東寺とほぼ左右対称の伽藍がらん配置であることがわかってきました(図1)。

図1 周辺調査位置図(S=1:2,500)
 

今回の調査は,西寺跡36・37次調査に当たります。36次調査は,史跡西寺跡の周知のために,3箇年計画でコンド山周辺の範囲確認調査を進めており,2年目の今年度は,昨年度に手懸りを得た講堂跡の基壇及び建物規模の確認を目的としています。37次調査は,3箇年計画で進めている推定五重塔跡を中心とした範囲確認調査の3年目で,五重塔跡及び鋳造遺構,西寺西限の確認を目的としています。

■ 西寺年表 ■
796年頃 造営開始
813年 金堂等の主要堂舎完成か
832年 講堂完成
882年 五重塔の造営開始
990年 西寺焼亡
1233年 五重塔焼失。以後再建されず。

2.調査概要

36次調査(図2)

図2 36 次調査平面図(S=1:200 )

コンド山

現在のコンド山は,西寺廃絶後の耕作地化に伴い,周辺に散乱していた瓦片等を講堂基壇上に積み上げられたため,現在の高さ(約3m)になったことが分かりました。江戸時代には今とほぼ同じ高さとなり,昭和12年の唐橋西寺公園開園に合わせ,裾部に盛土して現在の姿となっています。

講堂跡

基壇

4区にて正面階段及び基壇南縁,5区にて南縁及び東縁の凝灰岩延石のべいし抜き取り溝(幅0.8m)を確認しました。東縁は講堂中軸線から19.2mであることから,基壇東西幅は38.5m(129尺)となります。基壇盛土はシルトと砂礫を5~10㎝単位で交互に積み上げる版築はんちくによって構築しています。基壇の上面は叩き床の土間ですが,上面には焼土と焼瓦が堆積することから,正暦しょうりゃく元年(990)の「西寺焼亡」で講堂が焼失したことが裏付けられました。なお,火災層の上面は整地層で覆われ,出土した礎石には被熱した痕跡が無いことから,再建に向けた動きがあったことが分かりました。また,整地層によって基壇上面が良好に残っていたため,昨年度の調査と合わせると基壇高は1.5mとなります。

階段

4区にて正面階段の凝灰岩延石抜き取り溝(幅0.8m)を確認。溝は調査区を越えて延びる(7m以上)ことから,階段幅は3間以上と考えられます。階段の出は1.5mです。

建物

4区にて出枘でほぞ礎石1基(直径1.2m,柱座径1.0m),礎石抜取り穴(直径約1.5m)3基,5区にて礎石抜取り穴1基(直径約1.5m)を確認しました。4区の柱間中央が講堂中軸線であり,5区の礎石抜取り穴が建物南東隅に当たることから,身舎もやけ桁行けたゆき柱間15尺(約4.5m),ひさしの出13尺(約3.9m),基壇の出14尺(約4.2m)の桁行五間の身舎四周に庇を巡らせた五間四面(桁行七間梁行四間)の礎石建物に復元できます(図7)。また,側柱列には凝灰岩製の地覆座じふくざ2列(幅82㎝)及び礎石廻りに唐居敷からいじきの座(直径1.2m)が残されており(写真1),上面の被熱痕跡から,唐居敷(一辺約1m)と蹴放けはなし(幅27㎝)の存在が推定でき(図4),扉は内開きであったと考えられます。

軒廊こんろう

5区にて,盛土が部分的に残っていました(幅1.5~3m,高さ約1.3m)。軒廊の盛土単位は,講堂と比べて粗く,講堂と軒廊は別々に造営されていることがわかりました。基壇高は講堂と大差が無いため,取り付き部分は階段では無く,登り廊となっていたと考えられます。

写真1 4区礎石及び抜取り穴,地覆座及び唐居敷の座
図3 講堂推定復元図(S=1:500 )
図4 遺構から想定できる軸組み模式図
図5 壇上積基壇模式図
図6 礎石据え付け模式図
図7 西寺講堂復元平面図

37次調査

建物遺構(推定五重塔)(1区)(図8,写真2・3)

大型の壺地業つぼじさぎょうを12基確認しました。壺地業とは礎石等が不同沈下を起こさないように,礎石を置く地盤のみを掘削し,掘削底に巨石を据えて(根固め石)粘質土と砂礫などを交互に突き固めて埋め戻すことによって強度を高めています(図9)。壺地業は楕円形を呈し,直径約2m,深さが約0.5~1.2mです。理由については検討中ですが,場所によって地業の深さや根固め石の据え付け方に違いが認められます。地業と地業の間隔は約1mで,調査区の外に展開します。このような壺地業を確認したことにより,調査区1(境内南西)に礎石建物があったことが分かりました。

 

礎石建物は壺地業の配置からいわゆる総柱そうばしらであったと考えられ,柱間はしらまが東西3間・南北2間以上であったと推測できます。壺地業の中心に柱(礎石)があったと仮定した場合,東西約10.5m,南北約7m以上となり,柱と柱の間の寸法が約3~3.5m(約9~12尺)になります。古代寺院の堂舎の中でこれらの構造に類似する建物は,塔や正倉などがあります。また,壺地業から9世紀中~後半にかけて生産された灰釉陶器や瓦片が出土しました。したがって,建物の造営は9世紀後半頃に着手されたと考えられます。

今回確認した壺地業から想定できる柱間寸法などが,現在の東寺五重塔の規模に類似していること,造営開始年代が西寺塔の造営料が定められた元慶がんぎょう6年(882)に近いことなどからも,塔に関わる壺地業であった可能性が高いといえます。しかし,塔特有の心柱を支える心礎の位置に壺地業がないことから,宝蔵などの可能性も否定しきれません。礎石建物の比定については,有識者の意見も聞きつつ調査を進めています。

写真2:調査区1(西から)
写真3:壺地業断ち割り(北から)
図8:調査区1略図と東寺五重塔平面図の重ね合わせ図
図9:壺地業作業工程模式図
図10:壺地業と基壇関係模式図

鋳造ちゅうぞう関連遺構と西面築地内溝(2区)

昨年度(34次)の調査で鋳造関連遺構と西面築地内溝(築地の境内側に開削された排水溝)を確認した場所です。本年度は鋳造関連遺構の規模を把握するために昨年度の調査区を含めて北側部分の調査を実施しています。昨年度の調査によって西面築地内溝の幅が4m以上,深さが0.2~0.36mであることが明らかになっています。今回の調査によって鋳造関連遺構の規模が東西2.2m以上,南北1.95mであることが分かりました。現在調査中です。

3.今回の調査成果について

36次調査

平安時代の講堂基壇上面がそのまま残されていたことは,稀有な事例といえます。講堂中軸線及び柱位置を示す礎石等を確認したことから,建物及び基壇規模の復元が可能となりました。身舎の柱間は15尺で,桁行は七間となり,創建期の東寺講堂規模(柱間13尺等間の桁行九間)を示したとされる『東宝記』に「西寺また此れにじゅんず」と記された内容と異なるものとなりました。これまで建物規模もほぼ左右対称とされていた東寺と西寺について,再考を迫る成果といえます。さらに,基壇上面に座る凝灰岩に残された火災痕跡からは,唐居敷や蹴放の存在が推定でき,平安時代前期の寺院建築における軸部構造の一端が明らかとなり,建築史の面からも重要な成果といえます。

西寺跡では講堂跡であるコンド山のみが唯一地上に残された主要伽藍の名残りであり,基壇上に積み上げられた厚い盛土からは,松尾祭の神事の舞台として大切に守られてきたことを示しており,その結果,講堂跡が良好に残されていたことが分かりました。

37次調査

今回の発掘調査によって推定五重塔跡に礎石建物が建てられていたことが明らかになりました。残念ながら塔心礎に関わる地業を確認できなかったことから,礎石建物が塔とは断定できませんが,規模や造営開始年代などの状況証拠から塔跡である可能性は非常に高いといえるでしょう。今後,周辺の調査を進め,塔である可能性を高めていければと考えています。また,礎石建物の造営が9世紀中~後半であること,2区の鋳造関連遺構が9世紀後半頃であることから,両遺構が関連している可能性が高くなりました。西寺境内では金堂や講堂などが完成し,寺院として宗教活動が行われているさなかに,境内南西で建物建設工事が開始されたと想定することができます。文献史料においても西寺の造営が長い間続いていることが分かっており,これを裏付けることができました。

※用語解説

講堂・軒廊
講堂は寺院における七堂伽藍の一つ。説教・経典の講義等を行う仏堂。金堂の背後にある。
軒廊は主要伽藍を繋ぐ屋根付きの土間床の回廊。
基壇(図5)
大型の建物を建てるための盛土の土台。建物の威容を増し,湿気や柱の不同沈下を防ぐ効果がある。
側面(外装)には石や瓦にて化粧を行うことが多い。
側柱
建物の外周に並ぶ柱。
地覆座
建物の柱と柱を床面上で繋ぐ横材を指す。礎石建物の場合,瓦や石,塼( せん) などを用いることが多い。
蹴放・唐居敷
蹴放は門や扉の下にあり,内外の仕切りとする敷居。唐居敷は門柱や門扉の軸を支える方形の厚板又は石材。

4区の写真

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OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影

5区の写真

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展示遺物の写真

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説明ビデオ

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