- 現地説明会日時
- 2021(令和3年)10月9日(土)
- 調査機関
- 法相宗大本山 興福寺
- 国立文化財機構 奈良文化財研究所
- 調査地
- 奈良市登大路町 興福寺東金堂西正面
- 調査期間
- 令和3年(2021)7月13日(火)~(継続中)
- 調査面積
- 260m2(南北20m、東西13m)
- 現地説明会資料
- https://repository.nabunken.go.jp/dspace/handle/11177/9747
概要
- 東金堂西正面に門と回廊が存在したことが確定し、それらの変遷がわかりました。
- 門の基壇と建物の規模・構造がわかりました。
- 回廊の基壇と建物の規模・構造がわかりました。
1.調査の経緯と目的
興福寺は、藤原不比等が奈良時代はじめ(8世紀前半)に、平城京左京三条七坊の地に建立した藤原氏の氏寺であり、南都七大寺の一つです。奈良時代から中世を通じて、中金堂院を中心とする大伽藍を誇りました。たび重なる火災に遭っても、堂塔は創建期の規模で再建が繰り返され、伽藍の復興がなされてきましたが、中金堂の享保2年(1717)の被災後は、創建期の復興が叶っていませんでした。現在、興福寺では『興福寺境内整備構想』(1998)に基づき、寺観の復元・整備を進めています。これにともない、奈良文化財研究所では平成10年(1998)以来、中金堂院や南大門などの発掘調査を継続しておこなっており、今回の調査もその一環をなすものです(図1)。
調査は、東金堂の西正面に開く門とそれに取り付く回廊の基壇や建物の確認、およびその規模・構造などをあきらかにすることを目的におこなっています。調査区は、想定される門の全体と、回廊の一部を含む、南北20m、東西13mの範囲に設定しました(260㎡)。令和3年(2021)7月13日(火)から開始し、現在も継続中です。
2.興福寺東金堂院の概要
東金堂院は中金堂院の東に位置します。単廊と築地塀で四周を取り囲んでいたとみられ、北面と西面が礎石建ちの単廊、東面と南面が築地塀と考えられています。平安時代末頃の『興福寺流記』によると、東金堂は神亀3年(726)、五重塔は天平2年(730)の創建で、東金堂院の門・回廊も同時期に創建されたとみられます。創建以後、東金堂と五重塔は5回の火災に遭い、現存する堂塔は応永年間(1394~1428)の1420年前後に相ついで再建されたものです。門・回廊は現存しておらず、廃絶の時期はわかっていません。現状では、門・回廊跡には地上に基壇の高まりは認められません。防災工事にともなう発掘調査(1974・2014年度)では、北面回廊跡で礎石と基壇を検出しました。
2020年におこなった平城第625次調査では、五重塔の西正面において門の礎石据付・抜取穴を検出し、門の規模・構造をあきらかにしました。さらに、門と回廊の東辺の基壇外装と雨落溝を検出しました。調査であきらかになった門の中軸の想定位置から、門の基壇規模を想定しました。
五重塔および東金堂の西面の門の規模については、『興福寺流記』に「西門二門。〈長三間。別々一丈。〉廣一丈六尺。」と記載があり、門の規模や構造を知る手がかりとなります。
3.主な検出遺構
東金堂の西約20mの位置で、門の全体(南北約11m)と、門の南北に取り付く西面回廊の一部(北で南北約8m、南で南北約1m)を検出しました(図2)。
東金堂院西面回廊
基壇
東辺では、地覆石と羽目石の一部、および地覆石の抜取溝を検出しました。西辺では、地覆石の抜取溝を検出しました。これらから、基壇の東西規模は約6.2m(21.0尺)であることが判明しました。
地覆石・羽目石は、凝灰岩の切石を用いています。地覆石は、奥行約18㎝、高さ約9㎝で、幅はばらつきがあるものの29㎝前後のものが複数あります。羽目石が一部遺存しており、高さは約6㎝あります。
西辺の地覆石の下には、土器や軒丸瓦を含む整地土があります。これらの出土遺物の年代は、平安時代末~鎌倉時代初頭であり、今回検出した基壇外装はそれ以降の再建にともなうものと考えられます。
雨落溝
基壇の東辺と西辺で南北方向の雨落溝を検出しました。雨落溝は位置を踏襲して上下2時期あり、「下層」、「上層」と仮称します。
上層東雨落溝は、東に側石とみられる凝灰岩の痕跡があります。西に側石はなく、回廊基壇外装の地覆石が雨落溝の側石を兼ねていたと考えられます。雨落溝の幅は、約0.9m(3.0尺)です。底石は敷設されておらず、地覆石を据える整地土が雨落溝の底面となっています。この東雨落溝は、回廊基壇外装に対応した平安時代末~鎌倉時代初頭以降の再建にともなうものと考えられます。
下層東雨落溝は、底石、および東の側石の抜取溝を部分的に検出しました。底石は、検出状況から奈良時代の創建期に遡る可能性があります。
上層西雨落溝では、底石や側石は残存していませんでしたが、回廊基壇外装に対応した平安時代末~鎌倉時代初頭以降の再建にともなうものと考えられます。
下層西雨落溝は、堆積土のみ検出しており、底石や側石は精査中です。
建物
門の北で、礎石の据付・抜取穴を4基検出しました。一部では礎石の下に置く根石が遺存していました。梁行は、1間の単廊で、梁行の柱間寸法は、約3.5m(12.0尺)とみられます。桁行は、2間分を検出しました。柱間寸法は、北側の1間が約3.2m(10.5尺)、南側の1間が約2.4m(8.0尺)とみられます。後述する門との取り付きは約1.6mとなります。礎石の据付・抜取穴は一時期分しか確認されていません。
門
基壇
北辺、西辺、南辺の地覆石およびそれらの抜取溝を検出しました。南北の基壇規模は約10.8m(36.5尺)です。西辺は、回廊基壇の西辺から約0.9m(3.0尺)張り出します。東辺は精査中で詳細は不明ですが、基壇が門の南北中軸から対称形であるとすれば、東西の基壇規模は約8.0m(27.0尺)に復元できます。
基壇外装の地覆石には、凝灰岩の切石を用いています。基壇の西辺中央では、階段にともなう凝灰岩を検出しました。基壇から約0.4m(1.4尺)西に張り出した位置には、南北幅約2.1m(7.1尺)分の階段踏石が遺存しています。
今回検出した基壇外装は、回廊部分の調査所見などから、平安時代末~鎌倉時代初頭以降に再建されたものと考えられます。ただし、西辺の南側では、基壇外装に花崗岩製の転用地覆石がみられ、後世に改修された可能性があります。再建以前の基壇外装の有無は現在精査中です。
雨落溝
基壇の東辺と西辺で雨落溝を検出しました。雨落溝は、回廊部分から基壇の外形に沿って屈曲して続きます。回廊と同様、2時期の変遷があると考えられます。
上層東雨落溝では、東に側石の抜取溝を検出しました。回廊の所見から、平安時代末~鎌倉時代初頭以降の再建にともなうものと考えられます。
下層東雨落溝では底石を検出しており、創建期に遡る可能性があります。
上層西雨落溝では、底石や側石を確認できませんでした。出土遺物や回廊の所見から、平安時代末~鎌倉時代初頭以降の再建にともなうものと考えられます。
下層西雨落溝は精査中です。
建物
礎石の据付・抜取穴を6基検出しました。一部根石が遺存していました。梁行は2間で総長が約4.7m(16尺)、桁行が3間で総長が約8.8m(30尺)とみられます。柱間寸法は、南北方向の桁行が約3.0m(10尺)等間、梁行が約2.4m(8尺)等間です。礎石の据付・抜取穴は一時期分しか確認されていません。以上から、建物は切妻造の八脚門の形式であったと考えられます。建物の東西方向の中心軸は、東金堂と揃っています。
4.主な出土遺物
奈良時代から近世までの土器・陶磁器類および瓦塼類が出土しました。
5.まとめ
①東金堂院西面の門と回廊を確認し、それらの変遷がわかりました。
東金堂の西正面に位置する門と、それに取り付く回廊を確認しました。特に西面回廊については、基壇規模・構造や柱配置などが初めてあきらかとなりました。門や回廊にともなう雨落溝には2時期あることが明らかとなり、上層雨落溝は、下層雨落溝の位置と規模を踏襲していることがわかりました。上層の雨落溝およびそれと同時期と考えられる門や回廊の基壇外装は、東金堂の被災歴からみて、平家の南都焼討(1180)からの復興の姿と考えられます。門と東金堂は中心軸が揃い、造営当初の計画的な配置を踏襲して復興されていることがうかがえます。
②門の基壇と建物の規模・構造がわかりました。
南都焼討後の再建門の基壇規模は、南北約10.8m(36.5尺)であることが判明し、東西約8.0m(27.0尺)と復元できます。建物は、礎石の据付・抜取穴から、桁行3間、梁行2間であることがわかり、切妻造の八脚門とみられます。建物は、桁行総長が約8.8m(30尺)、梁行総長が約4.7m(16尺)で、各間は等間とみられます。この建物規模は、『興福寺流記』の伝える奈良時代の内容と符合します。
③回廊の基壇と建物の規模・構造がわかりました。
再建回廊の基壇規模は、東西約6.2m(21.0尺)です。凝灰岩切石を用いた基壇であることが判明しました。建物は、礎石の据付・抜取穴から、梁行1間の単廊であったことがわかりました。梁行の柱間寸法は、約3.5m(12.0尺)とみられます。
現場写真
OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影