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飛鳥京跡 148次調査
飛鳥京跡 苑池遺構
説明音声ファイル
飛鳥京跡148次調査 現地説明会 資料

|説明|遺構配置図

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調査地 明日香村岡383-1
調査面積 約128平方メートル
調査成果 飛鳥時代後半期に、重複して営まれた宮関連施設を確認した。
検出遺構は大きくみて3時期ある。新古の順にそれを示せば、
1)薄く散布された礫敷
2)敷石・溝・道路状礫敷遺構群
3)埋め立てられた柱穴・溝群
となる。今回の現地説明会では、2)の時期の遺構を中心に見学していただく。

敷石遺構(SH6835・6836)

 2基の敷石遺構が、約3.7mの間隔をおいて東西に配されている。今次と第15・16・146次調査の成果より、各々の規模・形状は次のとおりである。
 東敷石遺構(SH6835) の特徴は、北辺の敷石列を30〜40mm程度高く据え、かつその南縁を直線とし、南の敷石面に対峙させている点にあり、南北幅約7.9m・東西幅約14.7mの規模を測る。東辺は砂岩切石を底石とする溝であり、また南辺には塀を伴う。本来は長方形の平面であったが、東北側の敷石を除去する造り替えによって「L」字形に変更され、石を抜き取った辺に小振りの石を新たに配し、外方を直線に整えている。
 敷石遺構の北辺には、柱穴が残されている。一つは北西端にあり、切石等を直角に配して柱を避け、また柱の北側を人頭大の石で囲んでいる。同様の遺構は北辺中央の北側にもみられ、やはり北側の周囲を石で囲んでいる。これらの柱は敷石遺構の施工直前に立てられ、柱裾の周囲を敷石等で化粧したものである。
 西敷石遺構(SH6836) もまた、東敷石遺構と同様の特徴をもつ。遺構の規模は南北幅約7.9mを測るが、東西幅は不明である。北辺は、西辺と直角に配された石より西に、一列の石列が続いている。この石列と西敷石遺構に囲まれた場所には、径2.3m以上を測る柱穴がある。つまり西敷石遺構には、北辺から南へ入り込んだ位置に、大形の柱がたてられていた。

溝遺構(SD6838)

 東・西敷石遺構の北方約2mに平行して位置する、幅0.3mのである。側石は大半が失われているが、底石には砂岩切石・榛原石等が用いられている。溝の東端は東敷石遺構の東辺にある溝に合流するが、西端は西敷石遺構の北で終わる。そこより北へは幼児頭大の石による石列が約1.6mの長さで連なり、西へと折れ曲がっている。このことから、東・西敷石遺構は一体の遺構であり、かつ西敷石遺構の北側に小さな方形区画が伴うと推定される。
道路状礫敷遺構
 小礫を厚く敷き詰めた遺構であり、調査区の北端で東へ直角に分岐する。南北に延びる部分の幅は4.5m以内であり、周囲より0.2m以上の高さを保持していたと推定される。この礫敷の南への延長は、東・西敷石遺構間の空間であり、さらにその延長は第15次調査のSD6831(西側溝)・6531(東側溝)間の空間に連続している。これまでに知られた飛鳥時代の道路状遺構は、両側に石列を伴い幼児頭大の石で路面舗装したものである。今回の礫敷遺構はそうした丁寧な造りのものではないが、連続した遺構の配置からみて、宮内の遮蔽施設を通り抜ける道路であった可能性が考えられる。

まとめ

 第15・16・146・148次調査によって、調査地周囲の宮殿施設の概要を把握することができた。それによれば、飛鳥時代後半期の該当地域には、柱列・溝等を伴う敷石遺構が東西に配置され、東・西敷石遺構の間には南北道路が造られていた。調査地の北の区域が、宮殿の東外郭塀を隔てて、酒船石遺跡亀形石等といった斉明朝以降の祭礼空間に面していることと考え合わせれば、今回明らかになった遺構は、そうした宮殿側の区域に東外郭南から至る道路の一つと、道路に対して遮蔽の役割を果たす施設であったとも思われる。しかも東・西敷石遺構の柱配置の違いを重視すれば、さらに規模の大きい道路と遮蔽施設が西敷石の未発掘部分に存在する可能性も残されている。

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