1.はじめに
飛鳥京跡苑池遺構は、平成11年の第1次調査によって初めて確認された飛鳥京跡に付随する苑池です。第1次調査では苑池の南端付近を調査し、西側の石積み護岸と池底の敷石を確認しました。また池中で石造物2点と島状の石積み、南へ舌状に張り出す石積み護岸を確認しました。この石積み護岸の様子から、苑池は調査区外の北方に広がることが確実となり、平成12年度に苑池の範囲と形態の確認を目的として第2次調査を行いました。その結果、池を南北に仕切る東西方向の渡堤を検出しました。そしてこの渡堤を境として池が北と南に分かれてそれぞれの様相が異なることがわかりました。さらに渡堤から北に約60mのところで池が溝状に狭くなり、北方に抜ける通水部を確認しました。この通水部からは木簡が約50点出土しました。木簡には苑池に関わる職名「嶋官」、薬園の存在を思わせる「委佐俾(わさび)」、天智天皇5年(西暦666年)にあたる「丙寅年」などの記載があります。
今年度は調査を2回(第3次、第4次調査)に分けて行いました。第3次調査は、渡堤の全容と中島との取り付き部分の解明を目的として、第2次調査で検出した渡堤の西側の延長部分を拡張する形で調査区を設定しました。あわせて第1次調査で確認した張り出しの形態と渡堤との関係を解明することを目的として、張り出しの北側に調査区を設けました。その結果、渡堤は直腺でさらに12m西に続くことを確認しました。また張り出しは南池の中に独立して築かれた中島の一部であることがわかりました。
今回、ご覧いただきます第4次調査は、苑池の北限の確認を目的としたものです。第2次調査で検出した通水部の延長部分に東西方向のトレンチ(IV−1、3トレンチ)、および現在畑となっている高まりの北側に南北方向のトレンチ(IV−2、4トレンチ)を設定し、昨年の11月17日より調査を行っています。
調査に際しまして、岡嵜正博氏、辰巳勝久氏、谷川宏文氏、辰本健次氏から格別のご配慮とご協力をいただきました。また地元の明日香村教育委員会、岡区からも多大なご協力、ご援助をいただきました。記して感謝申し上げます。
2.調査の概要
調査の結果、各トレンチより水路とそれに伴う石積みの護岸を検出しました。
水路
IV−1トレンチとIV−3トレンチでは南北方向の水路およびその東側の護岸(護岸1、護岸2)と西側の護岸(護岸4)を検出しました。水路はII−5トレンチで検出した水路(通水部)の北延長部分に相当します。約80m離れており、やや西に振っていますが、現在の畑の地割りとほぼ合うようです。底は平らで石は敷かれていません。底面の高さはII−5トレンチの水路と同じで、水路に勾配はついていません。水路内の堆積土もII−5トレンチと同じで、底面より80cmの厚さで飛鳥時代に堆積した土層があり、その上に厚さ90cmの10世紀から13世紀にかけて植物が堆積した有機質層がありました。飛鳥時代の堆積土より木簡が約20点出土しました。
護岸1は苑池が造られた当初のもので、検出した範囲内では直線で、北で西に約11°振れています。現状の高さは100cmで、30〜40cmの石を3段に積んでいますが上部は抜けています。
護岸2は飛鳥時代の堆積土上に新たに積まれており、藤原宮期頃(西暦700年前後)に改修されたものです。護岸1よりも約100cm西側にせり出して水路を狭くしています。南北方向にほぼ合っています。高さは80cmで、30cm前後の石を3、4段に積んでいます。
護岸4は護岸1と11mの間隔をとって並行していますが、上の方で検出しており、水路の底面よりそのまま立ち上がる護岸ではありません。高さは40cmで、10〜50cmの石を2〜4段に積んでいます。使っている石は小さく、面を揃えていません。護岸4が積まれている地面は水路側へ幅1m以上の平坦面となっており、上面には石が敷かれています。護岸1の対岸となる護岸は出ていませんが、平坦面を肩にしていたものと思われます。その位置は現在のU字溝直下ぐらいに予想され、その場合水路の幅は約10mとなります。
IV−2トレンチとIV−4トレンチでは、東西方向の水路及びその北側の護岸(護岸3)と南側の護岸(護岸5)を検出しました。水路は、南北方向から東西方向に屈曲して方向を変えています。幅は13m、南北方向よりも幅を広げています。底面及び水路内の堆積状況はIV−1トレンチと同じで、水平で石は敷かれておらず、飛鳥時代堆積土と10世紀から13世紀にかけての有機質層が堆積していました。飛鳥時代堆積層より木簡が約10点出土しました。
護岸3は最大120cmの大振りな石を用い、面を揃え傾斜をつけて積んでいます。現状の高さは120cmで2段が残っていますが、水路内には転落石があり、上面の遺構の残り具合からすれば、当初はさらに1段あったと考えられます。方向は護岸1とほぼ直交しています。
護岸5は護岸3の対岸ですが、石材は40cm前後とやや小振りです。壁面には目地は通っていません。水路の底面まで掘り下げていませんが高さは2.2m前後になるとおもわれます。現状での護岸5の上端は、護岸3の上端よりも約1m高い位置にあります。
石溝
IV−2トレンチで石溝を2条検出しました。石溝1は東西方向の溝で、側石は全て抜かれており底石のみが残っています。幅は85cmで、20〜30cmの扁平な石を4列に並べています。溝の方向は西でわずかに南に振れています。西に緩やかに下る勾配がついています。
石溝2は南北方向の溝で長さ3.7mを検出しました。底石と側石の一部が残っています。幅は20〜25cm、高さは現状で15cmあります。南に下がる勾配がつきますが、水路とどのように取り付くかは不明です。この他の遺構として、IV−1トレンチより土坑3基、溝1基、IV−2トレンチより土坑10基、溝2条、IV−3トレンチより土坑2基などを検出しています。
3.まとめ
今回の調査成果として次の2点があげられます。
1. |
第2次調査で検出した水路(通水部)は北へ直線的に約80mび、西に屈曲して島状の高まりを取りまいていたことが判明しました。底面には南から北への勾配は全くつけられておらず、堆積土からも強い水流はうかがえません。したがって水路は池と一連で滞水し、オーバーフローした水を西方に排水して池水を循環させていたと考えられます。 |
2. |
苑池を構成する水利施設(池、水路)が南北200mに及ぶことが判明しました。苑の北限を示す遺構については確定に至っていませんが、苑池の範囲は南北200m以上になることが確実となりました。 |
次に3年間にわたる調査全体についてまとめてみました。
1. |
苑池遺構は立地的・時期的に飛鳥京跡上層遺構に対応します。宮都の後方に展開する苑池として先駆的なものです。 |
2. |
苑池の規模は南北200m以上、東西約100mの広大なものです。 |
3. |
都が飛鳥から藤原京、平城京へ移ってからも苑池は管理され続け、平安時代(10世紀)になって機能が失われました。 |
4. |
苑池の中の池は、南池と北池の二つに分かれています。どちらも平面形は直線を基調としたものです。 |
5. |
南池は底が平らで水深は浅く、池中には噴水施設をおいたり中島を築いていました。 |
6. |
北池は底が深くなっており、南池とはおもむきが異なるようです.。
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7. |
池には水位を調節するための木樋や水路がついています。また苑池に付属する施設として溝や掘立柱列があります。 |
8. |
水路からは木簡が多数出土しました。 |
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