はじめに
奈良県立橿原考古学研究所では、京奈和白動車道の建設に伴う発掘調査を大和郡山市八条町の八条遺跡ですすめてきました。八条遺跡の第1次調査(平成12年11月〜平成13年3月)では、県道筒井・二階堂線のすぐ東側の約2000平方メートルを発掘し(A地区)、古代の下つ道や中・近世の中街道に関わる遺構、古墳時代前期〜中期の溝などを検出しました。また、南池の西側の約1000平方メートルを発掘し(B地区)、古墳時代後期に築造されたと考えられる申墓(さるはか)古墳(径25mの円墳)の周濠を確認しました。第2次調査(平成13年5月〜現在)では、第1次調査A地区の西側から近鉄天理線のすぐ北側に至るまでの約14000平方メートルを調査し、これまでに弥生時代中期の方形周溝墓8基、古墳時代〜奈良時代の土坑・井戸などの遺構を検出しすでに調査を完了しています。さらに、現在は近鉄天理線のすぐ北側の一帯で、古墳の周濠を確認したことから、西側の水田に残る「水晶塚」の字名をとって、水晶塚古墳と命名し、調査を続けています。今回は、この水晶塚古墳の調査の状況を説明いたします。
水晶塚古墳の調査
(1)古墳の規模
調査区内で、二重の周濠を確認しました。まず内濠は、幅13.Om・深さ1.4mほどを測ります。内濠と外濠の間が中堤で、検出面で幅7.Om、外濠は、幅5.0〜6.6m・探さ1.1m、さらに外濠の外側に後世の土坑が取り巻いていることから、外堤の規模が幅5.5mほどであると想定できます。凌はいずれも調査区外へのびており、現行の水田の畦・水路や検出された濠の形状から、この古墳はもともとは大きな帆立貝式古墳で、その項丘が後世に大さく削られ、水田化したものと考えることができます。古墳の正確な規模はわかりませんが、測量図の検討や地中レーダ探査の結果から、円丘部の直径は約37m、墳丘の全長約50m、外濠の外側までの総延長は主軸側で約95mに及ぶものであったと考えられます。
(2)遺物の出土状態
周濠の各所からは、円筒埴輪が多数出土したほか、形象埴輪として内濠の墳丘側で蓋(きぬがさ)形埴輪の完形品が2点、さらには馬形埴輪の破片も出土しています。埴輪は、原位置を保っているものはありませんが、外濠より内濠で出土している数量が圧倒的に多く、古墳の外側はまばらに、墳丘側は、形象埴輪を混ぜながら密に並べていたものと准測できます。また、木製品として、大形の鳥形(翼)が2点(1)(2)、笠形が3点(1)(2)(3)出土しています。外濠では、鳥形(胴体・尾)が4点、笠形が5点、石見型が1点出土しています(数量は2月28日現在)。これらも、埴輪と同じように樹立されていたものが、後世に濠に転落したものと考えられます。また、墳丘が破壊された際に排出された土の中から、小札や鉄鏃などの鉄製品が出土しており、副葬品の一部と堆定されます。さらに濠の底付近からは須恵器・土師器などが出土していて、埴輪とあわせて考えると、古墳の築造年代は6世紀前半と堆定できます。一方、濠の上面で、平安時代後半(10世紀後半)の草花八稜鏡が、埴輪の破片や黒色土器や瓦器とともに出土しています。これらの遺物は古墳が大さく破壊され、水田化された際の年代を示すとともに、その時に何らかの祭祀がおこなわれた可能性を示すものです。
まとめにかえて
今回の調査で、水田の下に完全に埋没していた帆立貝式古墳の存在が明らかになりました。この古墳は、この地域でほぼ同時期に築造された星塚2号墳(全長41m)荒蒔古墳(全長30m)を凌ぐ規模を誇っています。二重の周濠をそなえ、外堤、中堤、墳丘と何重にも埴輪と木製品を樹立していた様子が再現でさます。当地を治めた首長の権勢をしのぶことができるとともに、当時の政治や古墳の祭りのありかたを考える上で極めて貴重な資料であるといえます。
橿原考古学研究所のホームページにも現地説明会の資料を掲載しています。
本資料は、寺沢薫・土橋理子の指導のもと、坂 靖・小出浩和が作成した。
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