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水晶塚古墳
中町西遺跡
中町西遺跡 現地説明会 資料

説明遺構分布図遺物

平成14年3月10日
奈良県立橿原考古学研究所

はじめに

 中町西遺跡は天理市の西端に位置し、標高は46m前後と奈良盆地の中でも比較的標高の低い場所に立地する遺跡で、京奈和自動車道「大和区間」の建設に伴う発掘調査によって新たに発見された遺跡です。調査地は古代以降の主要な交通路であった下つ道や、大和川をへて大阪に注ぐ佐保川の支流である中川に隣接しており、交通の要所に立地しています。

調査の概要

 今回の調査では、絶文時代〜近代までの遺構や遺物が見つかっていますが、そのなかでも特に、古墳時代中期と平安時代末の2つの時期についてはまとまった成果を得ることができました。以下にそれぞれの時期の主要な成果についての紹介を行います。
(1)古墳時代中期(5世紀中葉〜6世紀前半)
 竪穴建物や井戸、土坑、流路などの遺構を検出しました。竪穴建物は南北約3.9m、東西約2.5mを数え、四隅にはそれぞれ一つづつの柱穴を伴います。遺物は須恵器杯や土師器高杯、製塩土器、ふいごの羽口などと共に韓式系土器と呼ばれる朝鮮半島の強い影響を受けた土器が出土しています。井戸は5基検出しましたが、すべて円形掘方をもつ素掘りの井戸で、場所によっては現在でも豊富な湧水量を有しています。流路は3条確認しました。すべて現在の中川の旧流路と考えられ、その中でも最も西側で検出した流路2からは、埋土の上層より多量の遺物が出土しています。
(2)平安時代末(12世紀中葉前後)
 掘立柱建物、館を取り囲む濠、井戸、土坑などを検出しました。建物1は2間×3間の総柱で、倉倉庫と考えられます。また、方位の揃わない建物が5棟ありますが、これらは館の機能する時期よりも古い時期のものと考えられます。は東面の大半と南面の一部を検出しました。幅約3mを数え、調査区の南端で西側に屈曲します。また、東面の中央付近で陸橋と考えられる意図的な掘り残しが認められ、館の出入口に相当するものと考えられます。井戸は4基検出しました。井戸枠として曲物を1段〜3段積みにして利用したものです。出土遺物は瓦器椀や土師器皿、下駄や斎串などの木製品などがあり、その多くは濠や井戸から出土しました。

まとめ

 古墳時代中期の主要な成果として、韓式系土器が数多く出土したことが挙げられます。県内では布留遺跡や南郷遺跡群などで一定量出土していますが、本遺跡から出土した韓式系土器の量はこれらの遺跡に匹敵するものです。また、中川の北側には「コマ」と呼ばれる地名が残っています。「コマ」=「高麗」を示す可能性もあり、韓式系土器を用いた渡来人あるいはそれとかかわりの深い集団がこの地で生活を営んでいた可能性も考えられます。
 平安時代末の濠で囲まれた館については、周辺の地割の検討から約50m四方に復元されます。規模としては特に突出するものではありませんが、12世紀中葉前後と比較的古い段階のものとして位置付けられます。館の主体者については、その存在を直接的に示す史料は残されていませんが、周辺を開発した有力者の館であったものと考えられます。なお、館の外部でも同時期の遺構が認められ、居住域が館の周辺にも広がっていたもの考えられます。

奈良県立橿原考古学研究所:〒634−006 5橿原市畝傍町1番地
※研究所のホームページで現地説明会の案内・説明内容もご覧いただけます
本資料の企画・作成は寺沢薫・土橋理子の指導を得て、本村充保・伊藤雅和が行った。

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