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石神遺跡

説明文周辺位置図A期遺構配置図遺構概略図B期遺構配置図C期遺構配置図木簡参考資料

平成14年11月23日
飛鳥藤原 第122次
石神遺跡発掘調査(第15次)現地説明会資料
独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部
調査期間:平成14年7月〜  調査面積:約600平方メートル

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石神遺跡(第一五次調査)から出土した主な木簡
釈文の下の数字は、木簡の長さ・幅・厚さ(単位mm)、木簡の型式番号を意味します。

(1)(表) 御垣守口
   (裏) 口口口
                    (77)・34・4 081 南北大溝

※御垣守は「ミカキモリ」と訓読し、門や垣などの警護にあたった兵士と考えられます。「御垣守」と書かれた木簡は南北溝2からも出土しています。ただし、木簡の用途は不明です。

(2) 大学官 口                 (148)・(19)・4 081 東西大溝

※「大学官」は大学寮(大宝令に基づいて設置された官吏養成のための教育機関)の前身宮司です。『日本書紀』天智天皇一〇年(六七一年)正月条にみえる「学職」と同一の官司だと考えられます。「官」も「職」も「ツカサ」と訓読したと考えられ、大宝令制以前の一般的な官司呼称でした(参考資料氈j。

          (別筆)
(3) 物部五十戸人口口
    大家五十戸人 口口
    日下五十戸人  口口」
                98・26・5 011 東西大溝'

※「五十戸」はサトを意味し、七世紀に見られる表記です(参考資料)。物部五十戸・大家五十戸・日下五十戸は、後の尾張国愛智郡に同名のサトがあります。現在の名古屋市付近に相当する地域です。

4)(表) 乙丑年十二月三野国ム下評
   (裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
       口人田部児安
                152・29・4 032 東西大溝

※乙丑年は天智天皇四年(六六五年)。「国−評−五十戸」制を示す木簡としては最古の年紀を持つものです。全国的に作成きれた最初の戸籍である庚午年籍(六七〇年)より古い点が注目されます(参考資料。)。三野国ム下評大山五十戸(後の美濃国武芸郡大山郷にあたるサト、現在の岐阜県富加町付近に相当)から納められた物品に付けられた荷札です。ム下部知ツという人物は五十戸造(サトノミヤツコ)、すなわちサトの代表者と考えられます。田部児安は同サトに居住していた人物です。なお、「ム下」という表記の例は、大宝二年(七〇二年)の美濃国戸籍に記される人名にも見られます。

(5)(表〕 辛巳年鴨評加毛五十戸
   (裏) 矢田部米都御調州五斤
              161・21・4 032 南北大溝

※辛巳年は天武天皇一○年(六八一年)。鴨評加毛五十戸(後の伊豆国賀茂那賀茂郷にあたるサト、現在の静岡県南伊豆町付近に相当)の矢田部米都という人物が納めた調に付けられた荷札です。調は古代の税目の一種」です。御の字を付けて「ミツキ」と訓読したのでしょう。調の内容は、三十五斤という重さしか記されていませんが、カツオの可能性があります。

(6)(表) 安評御上五十戸
   (裏) 安直族麻斗一石
                 166・24・2 033 南北大溝

※安評御上五十戸(後の近江国野洲郡三上郷にあたるサト、現在の滋賀県野洲町付近に相当)の安直族麻斗という人物が納めた物品に付けられた荷札です。物品の内容は米か大豆の可能性があります。

         [年カ]
(7)(表) 甲申口三大野評
   (裏) 堤野里工人鳥六斗
               189・27・7 032 池状遺構

※甲申年は天武天皇一三年(六八四年)。三野大野評は後の美浪国大野郡(現在の岐阜県揖斐郡東部)にあたります。境野里は大野評にあったサトですが、該当するサト名は伝わっていません。工人鳥という人物が納めた物品に付けられた荷札です。物品の内容は米の可能性があります。

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