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恵解山古墳 第4次調査

現地説明会資料(市埋文センター)説明文調査区配置図第4次調査調査図
長岡京市教育委員会の資料
説明文墳丘と調査地点の図と写真副葬品埋納施設の実測図と写真航空写真と地図

(財)長岡京市埋蔵文化財センター
京都府長岡京市教育委員会

2003年10月4日(土)

恵解山(いげのやま)古墳第4次調査 現地説明会資料

調査名  恵解山古墳第4次調査、長岡京跡右京第783次調査(7ANQMK−4地区)
推定他  恵解山古墳、長岡京跡右京八条一坊十四町、南栗ケ塚遺跡
所在地  京都府長岡京市勝竜寺1204、久貝二丁目813、814
調査主体 長岡京市教育委員会
調査担当 (財)長岡京市埋蔵文化財センター
調査期間 2003(平成15)年8月11日〜現在維続中
調査面積 約185平米

2003年10月4日(土)
(財)長岡京市埋蔵文化財センター

1 調査の目的

 恵解山古墳は、古墳時代中期に築造された乙訓地域で最大の規模を誇る前方後円墳です。1981(昭和56)年10月13日に国の史跡として指定されて以来、用地の買収が徐々に進められ、20年余りを経た2002(平成14)年度中にようやく史跡指定全域の公有化が完了するに至りました。これに伴い、長岡京市では、古墳を史跡公園として保存整備し、広く市民に活用をはかる計画を押し進めようと考えています。そこで、整備計画を立案するため、墳丘や周濠の形態、規模、構造などの基礎資料を得る目的で発掘調査を実施することになりました。

2 過去の調査

 恵解山古墳は、1968(昭和43)年に京都府教育委員会が墳丘の測量を行って以降、3回の発掘調査が長岡京市教育委員会によって行われています。

 第1次調査 西側の周濠外堤部分を対象に1975(昭和50)年に行われたものですが、外堤とみられる遺構は確認されませんでした。

 第2次調査 1976(昭和51)年から1977(昭和52)年にかけて行われたもので、後円部と前方部で葺石の一部が確認され、現存する墳丘が大きく原形を損ない、痩せていることが明らかになりました。また、周濠と外堤の一部も確認されました。

 第3次調査 1980(昭和55)年に行われたもので、墳丘上段傾斜面の葺石と前方部のほぼ中央で副葬品のみを理納した施設が確認されました。葺石は、遺存状態が比較的良好で、墳丘西側のクビレ部の状況が明確になりました。また、副葬品埋納施設からは、刀、剣、鏃、蕨手刀子など武器類を主体とする鉄製品が700点近くもみつかり、全国的に大きな注目を受けました。この他、後円部の竪穴式石室に使用されたであろう安山岩や結晶片岩、それに副葬品の一部と見られる管玉が出土したことも重要な成果でした。

3 調査の概要

 調査区の設定 古墳は、全長約120m、後円部径約60m・高さ約8m、前方部幅約55m・高き約6.5mほどの規模に復元されていますが、墳丘は基地の造成や竹薮の開墾、土取りなどによって大きく改変を受け、本来の形態をとどめている個所は少ないようです。そこで、今回の調査では、南東面する前方部の形態と規模の解明を主眼とし、前方部の中央部と東側に2個所の調査区を設定しました。

 1トレンチは、墳丘の主軸とほぼ併行するように設定した調査区で、長さ約31m、偏約3m、墳丘部から周濠に相当する水田面にまで長く及んでいます。2トレンチは、現存する前方部墳丘の南東隅付近から東側に設定した長さ約20m、幅約3mの調査区です。

 墳丘と葺石 今回の調査では、前方部前面の裾部に施された葦石を1・2トレンチで確認することができました。特に、2トレンチでの確認は予想外の大きな成果でした。

 墳丘は、裾部のみを他山を削りだして形成し、その上に盛土を施して墳丘の大半を構築していることが明らかになりました。

 葺石は、墳丘の裾部付近に上方の傾斜面から転落した大小様々な石が多量に堆積しており、原位置をとどめる葺石との区別に苦慮しましたが、基底石付近の葺石を確認できました。葺石には、拳大〜人頭大ほどの大きさの石材を使用し、その種類はチャート、砂岩、粘板岩などが主体ですが、当地域には産出しない結晶片岩もごく少量出土しています。

 基底石は、長さ20〜35cmほどの比較的大きめの石材を多く用いており、おおむぬ一直線になるように並べて据え置かれていました。基底石より上の葺石は、拳大の石を多用しており、墳丘面に対して長軸を差し込むように葺いていました。また、2トレンチでは、基底石と直交するように並ぶ大きめの石列を確認しましたが、これは葺石を葺く際の作業単位を示す区画の石列ではないかと考えられます。

 ちなみに、埴輪はすぺて転落してきたもので、樹立した埴輪列は確認されませんでした。

 周濠 周濠は、1・2トレンチで確認することができました。他山を削り出して形成しており、周濠底での幅は約22m前後ありますが、深さは約0.3〜0.4mほどしかなく、とても立派な周濠といえるものではありませんでした。外周部の立ち上がりは、緩やかな傾斜面を呈し、その上面で2〜5cmはどの小礫が敷かれたような状態で確認されました。底部はおおむね平坦で、その性格は不明ですが、1トレンチにおいて楕円形をした浅い土坑状の遺構が並んだ状態で確認できました。また、周濠内に水平堆積する土層からは、埴輪片や人頭大の石をはじめ長岡京期や中世の土器などが出土しており、周濠は中世頃に埋没したことが明らかになりました。

 出土遺物 今回の調査では、整理箱に5箱程度の遺物が出土しています。遺物には、古墳に伴う埴輪や結晶片岩のほかに、長岡京期の土師器、須恵器、瓦、土錘、中世の土師器、瓦器、白磁、陶器などがあります。

 埴輪は、円筒埴輪と衣蓋(きぬがさ)形埴輪がありますが、その大半は小破片で、磨滅したものも多く、全形が分かるものはありませんでした。すべて、黒斑のある軟質に焼成されたもので、ヨコハケを施したものがあります。

4まとめ

 今回の第4次調査では、不明瞭な点が残るものの、前方部の情報をある程度確認することができました。

 まず、前方部の前面裾部で葺石を確認できたことは大きな成果です。基底石は、現存する墳丘の端部とほぼ同じ位置で確認されたことから、現存する前方部の前面端は、後世にいくらか改変を受けているとはいえ、ある程度当時の形態をとどめていると考えることができます。

 次に、前方部の幅については、2トレンチで葦石を確認したことによってさらに大きくなることが明らかになりました。南東コーナーは確認できませんでしたが、第2次調査での成果を考慮すると、すぐ東側に位置している可能性が濃厚です。そこで、第3次調査で検出された副葬品理納施設が古墳の中軸線上にあると仮定し、これを境に西側に折り返すと、前方部幅は70m前後の規模に復元することができそうです。このことから、前方部の側面は、東側だけでなく西側についても大きく削平を受けていることが考えられます。

 第3に、周濠については、底での暗が20m前後あるとはいえ、非常に浅いものであることが明らかになりました。これを周濠とするには、躊躇しますが、外周部の壌斜面に石を救いていることを重視するなら、周濠として整備した意図をうかがい知ることができます。

現地説明会資料(市埋文センター)説明文調査区配置図第4次調査調査図
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