石神遺跡 出土木簡 飛鳥資料館展示
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|石神遺跡第15次調査出土木簡について|配付資料の説明文|具注暦木簡|他の木簡の解釈|
石神遺跡出土木簡の展示 |
石神遺跡第15次調査出土木簡について 石神(いしがみ)遺跡は明日香村大字飛鳥に位置し、須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)が出土したことにより早くから知られている。須弥山石の存在と、東北地方産の土器が出土することから、『日本書紀』斉明紀の須弥山をつくって蝦夷(えみし)らをもてなした」という記事との関連が指摘され、斉明朝頃(六五五〜六六一)の遺構は「飛鳥の迎賓館」ともいわれる。だが遺跡の性格はそれだけにとどまらず、七世紀代を通じて造営が繰り返されたことが確認され、飛鳥の中でも大規模な遺跡のひとつである。 今回の調査地は斉明朝期の建物群よりも北側で、中心施設の外側にあたる。発掘の成果によると、調査地は斉明朝頃は沼地だったらしい。天武朝頃(六七二〜六八六)に整地され、L字形の大溝【東西大溝・南北大溝2】などがつくられた。整地の際のゴミ捨て穴【土坑1】もある。大溝の水は西から東、さらに北へ流れる。藤原京の時代(六九四〜七一〇)に全体が再び整地されたが、その際のゴミ捨て穴【土坑2】もある。この頃には、南北方向の道路と側溝【南北大溝1】、石敷をともなう井戸、掘立柱の【建物1】などがつくられた。遺跡が廃絶した頃、【建物1】の東側柱列に重なって【南北溝1】が掘られた。天武朝頃に溝であった場所にも細い溝【砂溝】が一条できた。この溝はきちんとした溝というより、水が流れやすいところに自然にできた流路のようである。 |
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