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2002/11/23の現説資料
石神遺跡 出土木簡 飛鳥資料館展示

石神遺跡第15次調査出土木簡について配付資料の説明文具注暦木簡他の木簡の解釈

石神遺跡出土木簡の展示
二〇〇三年二月二七日(木)〜三月九日(日)
*月曜休館 休館日に展示替えを行ないます

※原文は縦書きです

石神遺跡(第一五次調査)から出土した主な木簡
釈文の下の数字は、木簡の長さ・幅・厚さ(単位mm)、木簡の型式番号を意味します。

(1)    〔道カ〕
(表) 口勢岐官前口
(裏) 代口
(122)・(30)・6 081 土坑l
  ※「勢岐官せきのつかさ」は後の「関司せきのつかさ(塞職)」に相当する宮司とみられる。「〜の前に(白もうす)」という型式の文書木簡で、過所様木簡(関せきの通行許可証)と推定される。遺跡の北には山田道が東西に通り、関連が注目される。写真
(2)     〔番カ〕   〔奉カ〕
三野五十上口大夫馬草四荷口
179・19・3 001 東西大溝
  ※「〜大夫に馬草まぐさ四荷を奉たてまつれ」という内容を記す文書木簡。馬草は大夫まえつきみ(貴族に対する敬称)が三野みのに赴く際の乗馬に与えるものであろう。写真
(3) (表) 御垣守口
(裏) 口口口
(77)・34・4 081 南北大溝1
  ※御垣守みかきもりは門や垣などの警護にあたった兵士今後の調査に当たって、遺跡の性格を考える上で注目される史料となろう。写真
(4) (表) 九月生十[
(裏) 御垣守日口
(67)・(13)・2 081 南北溝2
  ※「口月口日」を七世紀には「口月生つきたちて口日」と記すことがあった。「御垣守」の下は「日下くさか」などの人名となる可能性がある。写真
(5) 大学官 口
(148)・(19)・4 081 東西大溝
  ※「大学官だいがくかん」は大学寮だいがくりょう(官吏養成のための教育機関)の前身官司。『日本書紀』天智一〇年(六七一)正月条にみえる「学職まなびのつかさ」と同一の官司であろう。写真
(6)      (別筆)
物部五十戸人口口
大家五十戸人 口口
日下五十戸人  口口
98・26・5 011 東西大溝
  ※「五十戸」はサトの古い表記。天武一〇〜一二年(六八一〜六八三)頃を境に「里」表記へ変わる。物部・大家・日下もののべおおやけくさかは後の尾張国愛智郡あいちぐん(名古屋市付近)に同名のサトがある。本木簡は仕丁しちょうの貢進に関わる可能性がある。仕丁は五十戸から二人ずつ中央に貢進され、諸官司で雑役に使役された。写真
(7) 深津五十戸養
182・20・4 032 土坑2
  ※「深津ふかつ五十戸」は備後国深津郡(広島県福山市付近)が知られるので、深津評と同名のサトであろう。「養よう」は後の庸ように相当し、仕丁らの生活費にあてられた。深津五十戸は仕丁の出身地と考えられる。写真
(8) (表〕 辛巳年鴨評加毛五十戸
(裏) 矢田部米都御調州五斤
161・21・4 032 南北大溝1
  ※辛巳年かのとみのとしは天武一〇年(六八一)。鴨かも評加毛かも五十戸(後の伊豆国賀茂かも郡賀茂郷、静岡県南伊豆町付近)の矢田部米都やたべのよねつが納めた御調みつき(後の調ちょうに相当)の荷札。三十五斤という重量から、荷の内容はカツオと推測される。写真
(9) (表) 安評御上五十戸
(裏) 安直族麻斗一石
166・24・2 033 南北大溝
  ※安やす評御上みかみ五十戸(後の近江国野洲やす郡三上みかみ郷、滋賀県野洲町付近)の安直族麻斗やすのあたいのうがらのまとが納めた物品の荷札。荷の内容は米または大豆であろう。写真
(10) (表) 乙丑年十二月三野国ム下評
(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
          口人田部児安
152・29・4 032 東西大溝
  ※乙丑年きのとうしのとしは天智四年(六六五)。「国−評−五十戸」制を示す木簡としては最古の年紀を持つ。最初の戸籍である庚午年籍こうごねんじゃく(六七〇)よりも古い。三野国ム下むげ評大山おおやま五十戸(後の美濃国武芸むげ郡大山郷、岐阜県富加町付近)からの荷札。ム下部知ツむげべめちつは五十戸造さとのみやつこ、すなわちサトの代表者である。田部児安たべのこやすは同じサトに居住した人物。荷の内容は米であろう。写真
(11)     [年カ]
(表) 甲申口三大野評
(裏) 堤野里工人鳥六斗
189・27・7 032 池状遺構
  ※甲申年きのえさるのとしは天武一三年(六八四)。三野大野おおの評は後の美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡東部)にあたるが、堤野つつみの里に該当するサト名は知られていない。工人鳥たくみひとのとりが納めた物品の荷札。荷の内容は仕丁の養米であろう。写真
(12)              (波)
(表) 乙酉年九月三野国不[
(裏) 評新野見里人止支ツ[  ]
170・25・3 011 土坑2
  ※「乙酉年きのととりのとし」は天武一四年(六八五)。「三野国不波ふわ評新野見にいのみ里」(後の美濃国不破ふわ郡新居にいのみ郷、岐阜県不破郡垂井町付近)の止支ツときつ[ ](判読不可)が納めた物品の荷札。他の三野国からの荷札と同様、荷の内容は米であろう。写真
(13)    〔岬カ〕
高草評野口五十戸鮎日干
         贄
170・26・4 031 南北大溝1
  ※「高草たかくさ評野岬のさき五十戸」(後の因幡国高草郡野坂のさか郷、鳥取市野坂付近)から納められた贅にえの荷札。贅は税目の一種で、五十戸制の時代のものとしては初出。荷の内容は鮎の干物。写真
(14) 海評佐々五十戸 勝部由手
        調制代煮一斗五升
197・27・2 031 南北大溝1
  ※「海あま評佐々さき五十戸」(後の隠岐国海部あま郡佐作ささ郷、島根県隠岐郡海士町付近)の勝部由手すぐりべのゆてが納めた調の荷札。荷の内容はコノシロ(ニシン科の海産魚)を煮た物。「制」は「魚このしろ」の略字。「制代」と書いて「コノシロ」と訓読した。※原文では(このしろ)は「魚」へんに、つくりが「制」です。写真
(15)               〔布由カ〕
(表)奈尓波ツ尓佐児矢己乃波奈口口[
               〔丈カ〕
(裏) 口 口倭部物部矢田部丈部口
(295)・29)・4 081 東西大溝
  ※表面は万葉仮名で難波津なにわづの歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」を習書しゅうしょ(字の練習)する。「咲くや」の「く」を「児」と記した例は平城宮出土木簡にもある。裏面も習書で、「倭部やまとべ」「物部もののべ」「矢田部やたべ」「丈部はせつか」など、部民べみんに由来する姓を列挙する。

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