配付資料
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下田遺跡
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|説明文|周辺遺跡分布図|調査地点位置図|遺構配置図|用語解説|
下田遺跡 |
1.はじめに
堺市教育委員会では、日本軽金属株式会社の依頼を受けて、下田町20-1に所在する同社大阪工場跡地内において、商業施設建設に伴う下田遺跡の発掘調査を、平成14年11月18日より実施しています。調査面積は、7784平米です。 調査成果 今回の調査地点は、氾濫平野の中でも周囲よりやや高まった自然堤防上に位置しています。調査ではこの微高地にのるかたちで、弥生時代中期と古墳時代前期の集落跡を確認しました。以下、時代ごとに略述します。 弥生時代中期(紀元前1世紀代) 竪穴住居7棟をはじめ墓・溝などが見つかりました。竪穴住居はすべて円形で、なかには直径約8.8mの・大型住居(竪穴8)もありました。また、中央の土坑を挟んで一対の柱穴が配置される松菊里(ソングンリ)系の住居(竪穴3・8〉も確認されました。墓はいずれも長方形を呈しており、このうち長辺2.2m・短辺0.9mを測る墓3は、土の堆積状況から木の板を組み合わせた棺を納めた木棺墓であった可能性があります。また、長辺2.3m・短辺1.1mを測る墓1は、木棺が納められていたかどうかはわかりませんが、墓穴内に2個体の土器が置かれていました。溝はすべて調査区を南から北に縦断する形で概ね平行して検出されました。いずれも長さは100m以上におよぶ長大なものです。溝7は、幅釣5m・深さ約1.6mで、今回検出した中では最も大規模なものでした。溝1〜6は、溝7よりは比較的小規模ですが、断面が」もしくはU字形を呈した大型の溝です。一部が重複していることからすべてが同時に築かれていたわけではありませんが、2〜3条程度は同時に機能していたのかもしれません。また、溝7より西側では、溝以外の弥生時代の遺構は見つかっていないことから、これらの溝は居住域とそれ以外を区画する意味合いを持っていたものと考えられますが、他の用途については今後の課題です。 古墳時代前期(4世紀代) 竪穴住居42棟をはじめ掘立柱(ほったてばしら)建物や溝・井戸などが見つかりました。竪穴住居はすべて方形で、一辺が約8mの大型のもの(竪穴41)や火事で焼けたもの(竪穴19)もありました。竪穴内の施設では、柱穴や炉/かまど状遺構のほかに、床面の周囲を一段高くしたベッド状遺構と呼ばれる施設や床に穴を掘った貯蔵穴を持つものもありました。掘立柱建物は21棟が見つかりました。出土遺物が少なく建物の時期ははっきりとはわからないのですが、柱配置や重複関係、他の遺構の年代観などから、ほとんどの建物が古墳時代前期の範囲に納まるのではないかと考えています。溝は、大部分のものが弥生時代の溝とほぼ同じ場所に重複して見つかりました。おそらく弥生時代の溝が窪地として名残をとどめていた場所を掘り直して、再度溝として利用したのでしょう。しかし、用途については今のところよくわかっていません。井戸は全部で7基見つかりましたが、木製の井戸枠を持つもの(井戸4)もありました。また、井戸1からは完全な形の土器が見つかりました。水に関わる祭祀行為が行われていたのでしょうか。 まとめ これまでに行われた調査成果を考え合わせると、弥生時代中期の集落の居住域は、南北200m以上、東西30m以上の南北に細長い範囲となり、存続期間は紀元前1世紀頃の約100年間と想定されます。しかし、この時期の集落は、遺構の密度が必ずしも高くはなく、散在的な小集落だったと考えられます。ところで、今回の調査で見つかった複数の溝を掘削する土木作業量は、この小集落だけでまかないきれるものとは考えがたいので、これらの土木工事は、地理的にも近接しており、当時石津川流域の中心的な集落であった四ッ池遺跡の集落と、共同で行われたと想像されます。こういった状況を考えると、弥生中期の下田集落は、四ッ池の集落と非常に密接な関係にあったといえるでしょう。もしかすると、下田集落は大きな意味では四ッ泡集落の一部だったのかもしれません。 |
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