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下田遺跡

説明文周辺遺跡分布図調査地点位置図遺構配置図用語解説

下田遺跡
現地説明会資料
2003年6月8日
堺市教育委員会

四ッ池遺跡

和泉市・泉大津市にまたがる池上曽根遺跡とともに和泉地方で最も栄えた弥生時代の集落の一つです。弥生時代のほぼ全期間をとおして石津川流域の中心的な集落として栄えました。特に下田遺跡に集落が営まれた弥生時代中期には、周囲を川と溝で囲まれた面積約3万5千平米の環濠集落とも呼ぶべき大規模な集落になっていました。この頃には石津川の流域に、治水・マツリ・戦いなどを共同で行う地域社会ができあがり、四ッ池の集落は、その中核(拠点集落)になっていたと考えられます。
しかし、後期になると、集落は縮小・分散するようになりました。

竪穴住居

地面を掘りくぼめて床面を作り、その上に屋根をかけた建物。屋根を葺き降ろすものや、板壁・土壁を持つものもありますが、上部構造の復元は困難です。堺周辺では、5〜6世紀頃まで主に住居として使われました。形態は、弥生時代中期までは円形で、弥生時代後期以降、方形に変化していきます。一般的な大きさは、直径もしくは一辺が4−6m程度です。

松菊里(ソングンリ)型(系〉竪穴住居

床面の中央に楕円系の穴を掘り、その両側に一対の柱穴を持つ竪穴住居の一形態で、北部九州を中心に西日本の各地で確認されています。大韓民国の松菊里遺跡で確認されたのでこの名前で呼ばれています。弥生時代の前期に既に日本に伝わっていますが、中期以降は中央の柱穴とは別に主柱穴を持つなど日本的にアレンジされ変形していきます。こういった形のものを松菊里系竪穴住居と呼んでいます。松菊里型(系)竪穴住居は、石器生産などの工房跡として確認される場合も多いのですが、必ずしも全てではなく、まだ性格等詳細こついてはわかっていません。少なくとも朝鮮半島の影響を受けた住居形態であることは言えそうです。

掘立柱建物

床面を掘り下げず、柱を直接地面に埋め込んで立てる構造の建物で、高床式と平地式があります。5〜6世紀頃まで主に高床式の倉庫として使われました。それ以降は、礎石建物に代わるまで、平地式の住居の主流として使われるようになりました。しかし、竪穴住居同様、上部構造の復元は困難です。

蓋(きぬがさ)形木製品

蓋は、日よけ、雨よけとして、貴人の頭上に差し掛ける長柄の笠です。奈良県佐味田宝塚古墳の家屋文鏡には、高床住居や竪穴住居に蓋を立てた様子が表現されています。奈良時代律令制のもとでは、官職や位階によって、蓋に張る布の色や房の有無などが規定されています。TSD−1地点の調査では、木製の笠骨が出土しています。

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