平城第370次調査 平城宮朝集殿院の調査 現地説明会資料
2004年6月5日(土)
独立行政法人文化財研究所
奈良文化財研究所
平城宮跡発掘調査部
平城宮の中枢部は、大きく2つの区画に分かれています(第1図)。このうち、朱雀門北側の第一次太極殿などが位置する地域を「中央区」、内裏や第二次大極殿などが位置する地域を「東区」と呼んでいます。今回、発掘調査をおこなっている「朝集殿院」は東区の南方に位置しており、儀式や朝政の際に宮人が集合し、待機する場所だったと考えられています。
朝集殿院における過去の調査としては、東朝集殿の基壇および朝集殿院の東面築地を検出した第48次調査(1968年)に始まり、朝集殿院の北辺部における状況を明らかにした第265・267次調査(1996年)、朝集殿院の南門を確認した第326次調査(2002年)、そして朝集殿院の東南隅の状況を明らかにした第346・355次調査(2003年)があげられます(第2図)。
これらの調査成果から、奈良時代前半の朝集殿院は掘立柱塀で区画され、その東西幅は北方の東区朝堂院より広かったことがわかりました。奈良時代後半になると、区画施設が築地塀に改築され、東西幅も東区朝堂院と同じ幅になります。区画の内部には東西に1棟ずつ朝集殿が建てられており、これは基壇をともなう礎石建物だったことが明らかになっています。なお、このうち東朝集殿(第3図)は唐招提寺の講堂として移築されたと伝えられています。
これまでの調査は主に朝集殿院の範囲や区画施設の構造を明らかにするためにおこなわれてきましたが、朝集殿院の中央の広場部分の状況は不明のままでした。そこで今回の調査では広場部分の構造を明らかにするために、東西31m×南北19m、面積589平米の調査区を設定して、調査を開始しました。この調査区を「酉調査区」と呼ぶことにします。
今回の調査ではもう1ヵ所、東朝集殿の南端部分で東西25m×南北15m、面積375平米の調査区を設定しました。これを「東調査区」と呼ぶことにします。この調査区を設定した目的は、東朝集殿の変遷過程を明らかにするためです。というのも、朝集殿院北方の東区朝堂院では、奈良時代前半に基壇をともなう掘立柱建物が朝堂として建てられ、奈良時代後半になると基壇を作りかえた上で礎石建物に改築されることが明らかになっています(第8図)。また、先に述べたように朝集殿院の区画も奈良時代前半と後半で構造を大きく違えています。そのため、東朝集殿も改築された可能性があります。この問題に対して何らかの情報を得ることも、今回の調査の目的です。
これらの調査は2004年4月1日より開始し、現在も継続中です。
この調査区は東西の朝集殿の東西中軸線と、第326次調査で確認された朝集殿院南門の南北中軸線が交差する地点、すなわち朝集殿院の中央部に位置しています。調査の結果、南北方向の道路の側溝と、その内側(路面側)に設けられた穴列を確認することができました。
側溝の位置関係から推定される道路幅は約24mで、第326次調査の成果もあわせると、朝集殿院南門から朝堂院南門へと南北に続いていることが明らかとなりました。なお、今回の調査範囲では東西方向の道路側溝のような遺構はなく、東西の朝集殿へと続く道路の有無は確認できていません。
そしてこの南北道路の側溝の内側に、東側では8基、西側で9基の穴列が南北に並んでいる状況を確認しました。このような穴は朝集殿院南門や朝堂院南門、そして朝集殿院南方の壬生門付近でも確認されています。これらの穴は等間隔で一列に並んでいるのではなく、教本ずつのまとまりがやや間隔をあけて並んでいたようです。また、東西の穴列の位置は概ね対応しており、道路の中軸を挟んで左右対称に並んでいたようです。なお、すべての穴が同一時期に併存していたかどうかは明らかではなく、朝集殿院南門北側では穴どうしに新旧関係が確認されていますので、今回の穴列も、異なる時期に属する穴のまとまりが、互いに位置を違えながら設けられていた状況を示している可能性が考えられます。
さて、これらの穴列の性格についてですが、遺構の状況からは建物や塀だったとは考えられません。平安時代にまとめられた『延喜式』などの記載によれば、元日朝賀や外国の使者を迎える儀式などの際に、朝堂院から朱雀門に至るまでの各所に旗を立てる規定があります(関連史料参照)。このことから、今回の調査で確認された柱穴列も儀礼用の旗竿を立てていた痕跡と推定され、平安宮と同様の儀式が平城宮でもおこなわれていたと考えられるでしょう。
関連史料
『延喜式』巻四十六 左右衛門府 大儀条
「大儀<元日.即位および蕃国使の表を受くるを謂ふ>。
・・・督は尉以下を率い、会昌門外左に対せよ。鷲像纛幡一旒、鷲像纛幡二旒、小幡冊九旒、鉦・鼓各一面。・・・」
*「会昌門」=平城宮では朝堂院南門に相当する。『儀式』巻六 元正朝賀儀
「・・・左右衛門府は尉以下を率い、会昌門外の左右に隊す。鷲像纛幡一旒、執纛十六人、執戟四人、鷲像纛幡二旒、小幡冊九旒、鉦・鼓各一面。・・・」
東調査区では、できるだけ東朝集殿の基壇を壊さない方針のもと、基壇の西寄りの位置と調査区の東北隅で調査を進めました。その結果、基壇の西寄りでは単独で存在する柱穴を1基確認しましたが、建物の柱穴とは考えにくく、時代を含めてその性格はよくわかりません。また、調査区の東北隅でもまとまった遺構は確認できませんでした。
このように、今回の調査範囲の中では基壇の下層において、少なくとも礎石建ちの東朝集殿と同規模かつ同じ位置に掘立柱建物がないことが明らかになりました。このことから、以下のような幾通りかの状況が想定されます。
東区朝堂院では、下層の掘立柱建物は上層の礎石建物より規模が小さいことがわかっています。そして、今回の調査範囲で柱穴が確認できなかったことから、調査のおよばなかった基壇中央部の下層に掘立柱建物が存在している可能性があります。
奈良時代前半の朝集殿院は、奈良時代後半より東西幅が広いため、それに応じて掘立柱建物も、やや東寄りに位置している可能性があります。ただし、区画施設である掘立柱塀との間隔を考慮に入れた場合、掘立柱建物の規模は礎石建物よりも小規模であった可能性が高いと考えられます。
この場合、東朝集殿は奈良時代初めの造営当初以来、一貫して礎石建物であったのか、あるいは奈良時代当初に朝集殿は設けられておらず、奈良時代半ばの東区朝堂院の改築に合わせて、新たに礎石建物の朝集殿を造営したのか、という点が問題になってきます。
この3つの案のうち、どれが妥当であるかは今後の調査の成果に委ねられますが、今回の調査成果はこれからの調査方針に対して、1つの指針を示すことができたといえます。
このほか、基壇上では礎石建物の礎石の据え付け痕あるいは抜き取り痕と考えられる遺構を1ヵ所で、礎石建物にともなう足場穴を11ヵ所で確認しています。
今回の調査の成果をまとめると、次の2点になります。
(1)朝集殿院の中央部では南北に通じる道路の側溝を確認し、その道路の内側に儀礼用の旗竿が並んでいた状況を明らかにしました。
(2)東朝集殿の変遷過程については、基壇の下層に礎石建ちの東朝集殿と同規模・同位置の掘立柱建物がないことを明らかにしました。