大坂城跡

※下記の文、写真は、すべて当日の配付資料からの引用です。

現地説明会資料
平成16年1月23日(金)
大阪市教育委員会
財団法人 大阪市文化財協会

はじめに

大阪市教育委員会と(財)大阪市文化財協会は、平成15年11月から平成16年1月まで大阪市中央区糸屋町1丁目・北新町1丁目の地点で、大坂城跡と難波京跡の発掘調査を行ってきました。今回の調査では、古代の方形土壙をはじめとする興味深い遺構が発見されました。

図2 調査地位置図(1:1,000)

調査成果

今までの調査から、人が住む以前に堆積した地層(地山)の標高を復元すると、調査地の北西には、北東・南西方向にのびる大きな深い谷があったことがわかっています(図1)。

1.西調査区

図3 西調査区で見つかった古代の遺構(1:200)

本調査他の西調査区には、この谷に向かう小さな谷があり、この谷の中に7世紀半ば〜後半の方形土壙2基(図3の方形土壙1・2)が発見されました。これらの土壙からは、前期難波宮が営まれていた時期の良好な土器資料が多数見つかりました。このうち方形土壙2はかなり深く掘られており、井戸の可能性があります。また、これらの土壙の上には7世紀末〜8世紀初頭の土器を含む地層が堆積し、その上面で8世紀前半ごろの後期難波宮の時期に埋められた溝群が見つかりました(図3の溝1〜7)。溝はいずれも急な傾斜地に掘られていますが、水が流れた痕跡は見られませんし、谷の方向とは関係なく東西方向に揺られているので、区画溝であった可能性が考えられます。

これらの遺構や遺物は、前期・後期の難波宮の宮域外に造営されたものであり、難波京の建物や道路などの配置や、当時の暮らしを知るうえで、重要な手がかりとなるものです。

この谷は奈良時代の間にほぼ埋め立てられ、その後、中世には畠地となりました。さらにここでは16世紀末の豊臣時代の整地層も見つかっており、古代から近世にかけて、人の手が加えられ、利用されていた土地であったことがわかりました。

7世紀半ば〜後半の前期難波宮が営まれていた時期 8世紀前半の後期難波宮が営まれていた時期

 

2.東調査区

図4:東調査区で見つかった古代の遺構(1:200)

東調査区では中世や近世の遺構は見られませんでした。これは地山の標高が現状で西調査区よりも1mほど高く、削る整地が繰り返し行われたためではないかと考えられます。地山の上面では古代の柱列と掘立柱建物が見つかりました(図4)。出土遺物がほとんどないため、これらの遺構の時期はわかりませんが、方向がよく似ているので両者は同じ時期のものと考えられます。

現在までの調査では、前期・後期の難波京についての考古学的資料はまだあまり多くありません。今回の発掘調査は難波京を考える上で、重要な資料となるものです。