恭仁宮跡

恭仁宮跡
2005年11月26日(土)
京都府教育委員会

はじめに

京都府には、現在からおよそ1200年前に3つの都が造られました。

加茂町には天平の都・恭仁京が造られ、向日市・長岡京市・大山崎町・京都市の3市1町には長岡京が広がっていました。そして、京都市には千年の都・平安京が造られました。

恭仁京は、今からおよそ1260年前の天平12(740)年に瓶原(みかのはら)に造られた奈良時代の都で、その中心となるのが「恭仁宮」です。

宮の中には、主に天皇が暮らし、さまざまな儀式などが行われた内裏(だいり)や、政治など国家の儀式が行われた大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)、さらには役人たちが仕事を行った役所(官衛(かんが))など、国のなかでも最も重要な施設が造られました。恭仁宮を中心とする加茂町・木津町の一帯は聖武天皇の時代に一時期ですが、国の首都となっていたのです。そのわずか4年後の天平16(744)年には、都は大阪の難波宮へと移り、さらには再び奈良の平城京へと戻されました。恭仁宮は短い役目を終え、その後、天平18(746)年には、山城(山背(やましろ))国分寺へと生まれ変わりました。

古代の都の位置の図

これまでの調査で分かっていること

京都府教育委員会では、昭和48年度から恭仁宮跡の発掘調査を行っています。これまでに内裏や大極殿など、建物跡などがいくつか見つかり、宮の中がどのようになっていたのかも少しずつ分かってきています。 東西におよそ560m、南北におよそ750mの大きさで広がり、周りを大きな土塀(大垣(おおがき))で囲んでいたことも分かりました。大極殿は宮内のほぼ中心に造られていて、高さ1mの大きな土壇の上に築かれた東西が約45m、南北が約20mもあった大きな建物でした。柱を大きな石材の上に建てる礎石建物(そせきたてもの)で、北西と南西の隅に使われた礎石は、当時のままの位置にあることが調査によって分かりました。また、平城宮などでは大極殿の北側には内裏が造られていますが、恭仁宮では、この場所に東西に2つ並ぶ塀で囲まれた区画があることが分かりました。これは、その他の都では見られない恭仁宮だけのものです。今は、この2つの区画をそれぞれ「内裏西地区(だいりにしちく)」「内裏東地区(だいりひがしちく)」と呼んでいます。「内裏西地区」は周りが全て板塀(掘立柱塀)で囲まれ、東西が約98m、南北が約128mの大きさでした。「内裏東地区」は東・西・南の三方が土塀(築地塀(ついじへい))、北側が板塀(掘立柱塀)で囲まれ、東西が約109m、南北が約139mの大きさでした。朝堂院ではこれまでに建物跡は見つかっていませんが、周りを板塀(掘立柱塀)で囲んでいたことが分かり、南側に造られた門の跡(朝堂院南門(ちょうどういんなんもん)・朝集殿院南門(ちょうしゅうでんいんなんもん)も見つかっています。

第1図 調査地点の場所
第1図 調査地点の場所
拡大図

今回の調査の目的は、大極殿の周りを囲んでいた施設(大極殿院回廊(だいごくでんいんかいろう))を見つけることです。発掘調査は10月11日から開始し、4地点(第1図)で合計330m2の面積で行いました。


今回の調査で分かったこと

第1調査地点

ここは、大極殿を中心とし昨年見つかった柱跡を東へ折り返した対称の位置となる地点となっており、同じような柱跡が見つかるかどうかを確かめるために調査を行いました。

しかし、ここでは同じような柱跡は見つかりませんでした。

第3調査地点(第2図)

ここでは昨年の調査で見つかった柱跡が、北側に続いていくかどうかを確かめるために調査を行いました。同じような柱跡は見つからず、北側へは続いていかないことがわかりました。しかし、北側で別の小さな建物跡が1棟新たに見つかりました。この建物跡は、東西3間(けん)(柱と柱の間が3つあることを3間といいます)、南北2間の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)で、柱穴はおよそ40cmの四隅が丸くなった正方形をしていました。柱跡の間隔は東西が1.8〜1.9m、南北が2.2〜2.3mとなっていました。いつ建てられた建物かは残念ながらわかっていません。

第2図 第3調査地点で見つかったもの
第2図 第3調査地点で見つかったもの

第4調査地点(第3図)

ここは、第3調査地点と同じように、昨年の調査で見つかっている柱跡が東側にも続いていくかどうかを確かめるために調査を行いました。 昨年の調査では、柱跡が東西に4.5m間隔で3つ並んで見つかっていましたが、今年も同じように4.5m間隔でさらに8つ見つかり、合わせて11個も並んでいることが分かりました。東端の3つは他と違って間隔が3.6mと少し狭くなっていました。南北には5つ並んで見つかり、それぞれの柱の間隔は北から3.3m、2.7m、2.7m、3.0mとなっていました。柱穴は一辺がおよそ1m前後の大きさで、ほぼ正方形に掘られていました。しかし、北端で見つかった柱穴は昨年と同じようにおよそ30cm程の小さな正方形でした。

今回の調査で見つかった柱穴を全て1つの建物の柱と考えると、大きさは東西が43.2m、南北が11.7mとなり、大極殿に次ぐ大きさでした。

第3図 第4調査地点で見つかったもの
第2図 第3調査地点で見つかったもの

おわりに

今回の発掘調査によって分かったことは次のとおりです。
(1)大極殿の北東に隣接する地点に掘立柱建物が建てられていました。
(2)東西10間、南北4間の大型の建物跡(東西43.2m×南北11.7m)で、東西の柱の間隔が4.5m(ただし、東端2間分は3.6m)と広くなっていました。

今回見つかった建物跡は全体の大きさはわかりましたが、調査ができなかった地点があり全体の姿については分からないところが残されました。その性格についても分からないままで、この建物跡が1棟なのか、あるいは2棟以上になるのかもまだよく分かりません。しかし、大極殿に隣り合う場所に造られた非常に大きな建物であることからも、大極殿などの主要な建物が完成するまでの間、仮の建物として宮の中で重要な役目を持っていたのではないかと考えられます。

今後、さらに周辺での調査を重ね、研究を続けていく必要があります。

最後になりましたが、今回の調査に際し、調査に参加していただいた皆さん、各方面から御指導・御協力いただいた方々に心より感謝いたします。