茨木市桑原遺跡の古墳終末期 群集墳

平成18年(2006年)4月22日(土)
大阪府教育委員会文化財保護課
平成18年4月22日(土)13時〜15時

1.はじめに

昭和42年の北摂豪雨災害を契機として、安威川治永を目的として大阪府都市整備部により、安威川ダムの建設が計画されました。大阪府教育委員会では、安威川ダム建設に伴い、その残土処分地に当たる桑原遺跡の調査を平成16年度から行なっています。すべてで約9300平米の調査を行い、平成18年6月に調査が終了する予定です。そのうち今年度は約3880平米の調査を行っており、主要な遺構が発見された部分を今回公開することになりました。

平成16年度下半と平成17年度上半に行なった調査では、中世の谷や掘立柱建物・環濠状溝群、飛鳥時代前後の溝・土坑が見つかりました。平成17年度下半から行なわれている今回の調査では上層では中世の建物跡・耕作痕、下層では古墳時代後期から飛鳥時代にかけての群集墳が24基以上も見つかりました。

図1 桑原遺跡調査位置図
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図2 茨木市桑原古墳群分布図
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2.桑原遺跡と周辺環境

桑原遺跡は、京都府亀岡市に源を発する安威川が丘陵から平野の段丘部に抜ける途中で水流が大きくS字に曲がり、西側に張り出す微高地の上にあります。遺跡から東側は高槻市側の丘陵へ急上昇します。その頂部付近には7世紀末の阿武山古墳やその南斜面には6世紀を中心とした塚原古墳群という群集墳があります。安威川を挟んだ西側の対岸、やや上流にも7世紀の初田古墳群があり、この遺跡は飛鳥時代前後の古墳に囲まれた特異な歴史的環境にあります。

平成16年度から行なっている調査の結果、桑原遺跡では弥生時代から近世にかけての遺物・遺構が確認されています。上層では中近世の耕作の痕跡とみられる耕作土や井戸、溝などが確認され、石組み暗渠・石垣列などの石を使った構造物が地目境に作られていました。東側と南側には、中世に埋没したと見られる谷があり、谷を埋めた土からは南北朝時代前後のものと見られる瓦器碗の破片などが出土しています。掘立柱群も谷が埋まったあとに作られていました。その下層では、今回公開する遺構の中心である、古墳時代終末期の群集墳があります。平成15年度に行なわれた試掘の結果や、撹乱等に混じって出土する土器片より、そのさらに下層にも弥生時代の遺跡が存在したようです。

この遺跡は残土処分地となるために、遺跡自身は著しい盛土によって埋没してしまいますが、直接破壊されてしまうわけではありません。歴史資料として活用するために、重要な遺構である古墳時代面の遺跡の性格を把握し、記録することで今回の調査を終え、古墳時代の遺構を埋没保存する状態に留めます。

3.今回の調査で見つかった主な遺物と遺構

今回の発掘調査の成果として重要なものに、7世紀前半を中心とした古墳時代終末期の群集墳が新たに発見されたことがあげられます。検出した主な遺構として、中世の掘立柱建物、その下層に24基以上の古墳があります。この群集墳は周溝を共有し、密集して存在する様子は古墳終末期にあたる飛鳥時代に特徴的な分布状況と言われています。

上層遺構

古墳石室の残存状況より、中世期に居住・耕作用地を獲得するために、古墳を破壊した様相が観察できます。石室は盗掘目的でなく、その空洞部に礫等を投げ入れ、地盤を固めた上に屋敷をつくったり、耕作を行なったりしていたようです。そのため、それ以降に盗掘されずにかえって良好な状態で石室埋葬時の様子が残っています。また周辺の後代の石垣や、石室に残された石には多数の矢穴が見られ、石室の巨石は再利用されていることがわかりました。

古墳時代終末期の群集墳について

24基の古墳は横穴式石室もしくは土専室を伴っていたと思われ、内6基の石室は非常に良好な状態で残されています。当時の原地形にある谷を利用した墓道によって石室開口部の方向が定められ、古墳群をさらに細かくグループ分けすることができます。今回は、€調査区の中央、尾根の稜線沿いを中心に分布するA支群(1〜10号)、 調査区西南に位置する谷筋からアクセスできる位置にならぶB支群(1〜8号)、¡調査区東側の谷筋からアクセスできる位置に並ぶC支群(1〜5号)、の3つのグループに分けることができました。古墳の切り合い関係などから、3つのグループはさほど大きな時期差はなく併行して形成されていった様子がわかりますが、地形的に高地で一番条件の良い、尾根の稜線上を埋めるA支群が一番早くに形成され、空いた位置を埋めるように両脇のB・C両支群が続いて形成されていったと考えています。

石室内より出土する供献土器から推察すると、7世紀前半〜中葉あたりを中心とした墓地であると考えられます。残されている石室はどれも、玄室に袖のない無袖タイプで、開口部に続く羨道らしきものはなく、長めの玄室の南端の開口部に直接基道が繋がっています。墓道は周溝に向かって急速に下降していて、(A−4号墳などのように)排水溝の役割を兼ねているケースもあると考えています。それらを総合するとC支群は円墳と方墳、円墳を切って八角墳、A・B両支群は円墳から方墳へ移り変わります。

C−3号墳と八角墳

稜角が主軸にくる舒明陵古墳に見られるタイプの八角墳です。現在確認されている八角墳は、大型のものはほぼ総てが大王墳と言われているものです。このC−3号墳の被葬者は、そうした人物に準じる程の有力人物であったと言えるでしょう。墓坑を囲むように周り、上面はロート状に口が開き底部はV字型の断面を持つ、墳丘内排水溝の存在が確認されました。石室のすぐ近くを排水溝が取り囲む形態は、典型的な終末期古墳の特徴であり、似たような例としては7世紀末の大阪府柏原市安堂第6支群3号墳があげられます。

図3 C−3号墳平面図

図4 7世紀中頃から8世紀前葉の大王陵古墳 墳丘変遷図

A−3号墳と陶棺

調査区中央部南端に位置する円墳であるA−3号墳の主体部は特に残存状況が良く、石室内に7世紀前半のものと見られる陶棺が2基埋葬されていることがわかりました。ほぼ未盗掘の状態で中世に破壊された痕跡がみられ、どちらの陶棺も天井石の下敷きになって破壊された様子を生々しく伝えていました。調査区内の石室はどれも似たような破壊のされ方をしています。石室の外側の裏込めを除くように穴が掘られ、側壁が外側にずれたところで天井石が石室内に落ち込んでいます。石室内の埋葬に際しては、初葬時のものと見られる奥壁近くから出土した陶棺、最後の追葬時のものと見られる南側から出土した陶棺を含め、少なくとも3回にわたることが確認できました。石室内では、まず床面に平たい川原石が敷かれ、南側の陶棺の下には、その川原石のさらに上に約5〜7cm大のバラスが敷き詰められています。

陶棺

陶棺は現在全国でおよそ800基以上確認されており、おもに6世紀後半から7世紀代にかけてみられます。その分布域も北は福島県から南は福岡県までと広範囲に渡っています。数多く存在する地域は現在の岡山県北部にあたる美作地方と近畿地方であり、特に美作地方では日本全国の陶棺の半数以上が出土しています。

陶棺にはその焼成から大きく土師質と須恵質に、そして形から亀甲型と家型(四注式・切妻式)に分類することができます。今回A−3号墳で出土した陶棺は須恵質の四注式に分類されるものです。これは7世紀のはじめから中頃にかけて近畿地方、特に京都府南西部(乙訓)や大阪府北部(千里丘陵)・南東部(泉北丘陵)の一大窯業生産地周辺に多く見られるものです。今回、A−3号墳石室内の南側から出土した陶棺は、棺身の幅が狭いということや、脚部に透孔を持たないということなど細部に特赦が見られます。これに類似する形態の陶棺には、当遺跡に近接する高槻市に所在する塚原古墳群から出土した陶棺などをあげることができます。

陶棺という棺桶が新たに使用されるようになり、また使用される古墳も限られている特殊な葬法は、桑原遺跡の被葬者の性格を解明していくための手がかりになるとともに、この地域と周辺地域との関係、さらには中央政府との関係についても考えていくための重要な手がかりです。

図5 陶棺の種類
図5
土器のうつりかわり

4.まとめ

周辺には塚原古墳群や初田古墳群などの古墳時代後期以降のものと位置づけられる古墳群が多数存在しており、今回の新たに見つかった古墳群は、周辺地域の古墳では見られなかった谷斜面で密集する特徴的な分布を示しています。また、三島地方の中心部を流れる安威川沿いにあり、平野部の水源にもあたる位置にあることから、東の丘陵頂部にある史跡阿武山古墳も含め、三島地方有力氏族の墓地となっていたと考えられます。7世紀前半は蘇我氏が権勢を誇っていた時代で、多くの古墳が方墳になりましたが、この桑原古墳群ではその期間は円墳がつくられています。石室内からは7世紀中葉のものと見られる土器も出土しましたが、大化薄葬令が既に出されていたこの時期に、これだけ大きな石室と豊富な副葬土器を持つ立派な古墳を築造しています。また、その時期前後にC−3号墳の八角墳が見られます。その後、方墳に変わると考えられますが、このような古墳が大化改新をはさんで形成されたということは、中央政府にかなりの力を持っていた氏族の墓地とされていた可能性が高いでしょう。