財団法人滋賀県文化財保護協会
2010年7月4日
財団法人滋賀県文化財保護協会では、滋賀県教育委員会と滋賀県大津土木事務所からの依頼により柳川支流通常砂防事業に伴う宇佐山(うさやま)古墳群(大津市神宮町)の発掘調査を平成22年4月から実施しています。
この遺跡の範囲には、宇佐山の東斜面に古墳時代後期(6世紀)と見られる円墳が12基周知されています。今回その一部で砂防工事が計画されたため、平成21年5~8月に試掘調査を実施しました。その結果、工事対象範囲に4基の古墳が存在するとみられたほか、弥生土器、古墳時代から奈良時代の須恵器・土師器、奈良時代の土馬などが出土し、古墳のほかにも集落跡や祭祀跡などが存在すると推測されました。
このことから、遺構や遺物が存在するとみられる3,500m2を対象に平成22年4月から発掘調査を行っています。約2カ月が経過した現在、対象地のうち約1,600m2の調査を行っています。
これまでの調査で確認した遺構や遺物から、宇佐山古墳群は弥生時代中期から平安時代にかけての遺跡であることがわかってきました。
そのなかでも、今回報告します古墳時代中期前半頃(5世紀前半:約1,600年前)の築造とみられる古墳は、完全な状態で主体部(埋葬施設)が確認され、さらに、中に納められていた石棺には埋葬された人物の頭骸骨が残されていました。この古墳はこれまでに確認されていた12基以外に新たに発見された古墳であるため、宇佐山13号墳としました。
13号墳は地表面の観察では墳丘の盛り上がりなどはまったく観察できませんでした。表土層を除去したところ、3m×2mの土坑状遺構が検出され、これを掘り進めたところ古墳の主体部(埋葬部)であることがわかりました。
宇佐山東斜面の琵琶湖を臨む標高157mの山腹に築造されています。
主体部の上には墳丘(古墳を作るために盛った土)はまったく残っていませんでした。もともとあまり高くない、低い墳丘であったと思われますが、後世に流出したと考えられます。墳丘規模は、主体部の西側4m(斜面上方側)にある幅3mの浅い周溝と、東側7m(斜面下方側)にある墳丘裾部とみられる段差がその範囲を示すと考えられることから、東西は13mと考えられます。北側と南側にはこのような遺構を確認できなかったため不明確ですが、おおよそ20m以内であったと推測されます。墳形は、主体部の東側にある段差が直線的であることから、平面が方形を呈する方墳の可能性が高いとみられます。大がかりな造成を行わず、尾根を周溝や段差により成形しただけで作り出していたものと思われます。
東西約3m、南北約2mの墓坑(棺を納めるための穴)に板状の石材を組み合わせてつくった箱式石棺が納められています。箱式石棺は内法で長さ158cm、幅24~36cm、高さ30cmの規模で、頭側の幅を広くして、西の宇佐山側に頭部を、琵琶湖側に足を向けるようにつくっています。
側石は北辺が5石、南辺が3石で、西と東の小口は側石の外側にそれぞれ1石で構築しています。頭側の側石は、足側に比べ大きな石材を使用しています。天井には4枚の蓋石をのせています。蓋石のうち、頭部側の1枚目に使用されていた石材は四角く板状のもので、他のものより丁寧な加工が施されています。側石、蓋石ともに、頭部側を丁寧につくろうとしたことが伺えます。これらの石材はすべて花崗岩とみられ、周辺の山から調達したものと考えられます。石棺内の底には小さな石が敷かれることがありますが、確認されませんでした。
石棺には側石・蓋石ともに内面に赤色顔料が塗られています。顔料の種類は分析を行っていませんが、朱(硫化水銀)もしくはベンガラ(酸化第二鉄)の可能性があります。真っ赤に塗ることには、「魔よけ」などの意味があるとされています。
これまでの調査から復元される埋葬の過程は、①墓坑に石棺の側石を並べ、外側を粘土で固定します。粘土は側石の上面にまで盛り上がるように置かれ、蓋石を安定させる役割もしています。②石棺や蓋石の内面を赤色顔料で塗り、被葬者を安置して蓋石を置いていきます。棺外で見つかった鉄器(鉄剣や鉄鏃など)は、この段階で置かれ死者に供えられます。③石棺や鉄器を黒い粘土で覆い、蓋石上面が盛り上がった形に成形されます。粘土は砂礫を含み良質なものではありませんが、石棺を密閉することが強く意識されています。④墓坑を地山の土で完全に埋め戻します。であったと考えられます。
石棺内の西側から被葬者の頭蓋骨が現れました。石棺の規模と頭蓋骨の位置から仰臥伸展葬(ぎょうがしんてんそう:仰向けで足を伸ばした状態)と推定されます。頭蓋骨は土に埋もれていないこともあって上顎の歯までが分解されることなく極めて良好な状態で遺存しています。ほかに下顎の臼歯が2点出土しました。それ以外の部位は、土に埋まっていたため失われていました。
頭蓋骨には赤色顔料がよく付着しており、眼窩(眼球がはいる穴)の奥まであざやかに残っています。どのような状況で遺体に付着したのかはこれからの検討課題です。
古人骨に詳しい、片山一道(かたやまかずみち)京都大学名誉教授(理学博士)に頭蓋骨出土状態で肉眼鑑定していただいたところ、被葬者は壮年~熟年前半(20~40才代)の男性とみられ、身長は155cm前後と推測されます。やや小柄な感もするものの、古墳時代当時の平均身長(約162cm)からすると、とくに背が低いということではないとのことです。
被葬者の左足側にあたる棺外に鉄剣数振り・鉄鏃数点・砥石が副葬されていました。被葬者が生前使用していたものと思われます。石棺の中からは副葬品は出土しませんでした。
土器がまったく出土しておらず正確な年代については不明ですが、副葬されていた鉄鏃の型式や、類似する高島市打下古墳の年代観から、中期前半(5世紀前半)頃と推測しています。
今回発見された13号墳の類似例として、高島市勝野に所在する打下(うちおろし)古墳が挙げられます。この古墳は明神崎と呼ばれる岬の尾根上にあり、ここからは高島平野や琵琶湖を一望することができます。墳丘は失われており、その形は不明です。主体部には内法で長さ205cm、最大幅42cm、高さ30cmの規模の箱式(報告書では箱形と表現されている)石棺が備えられます。石棺の内面には赤色顔料であるベンガラが塗られており、遺体の周辺からは水銀朱も検出されています。石棺内には被葬者の遺骨が遺存し、鉄剣・鉄刀・鉄鏃が副葬されていました。鉄鏃の年代観から5世紀前半の造営と考えられています。
13号墳と打下古墳を比べるといくつかの共通する特徴が認められます。まず、墳丘は10数m規模で高さも低いものであったとみられ、古墳としては小型の部類にはいります。大きな特徴として、主体部に箱式石棺を用いていることが挙げられます。県内では、古墳時代中期の箱式石棺は現在のところ、このふたつの古墳でしか確認されていません。また、石棺の内面に赤色顔料を塗ることや鉄製武具を副葬することも共通します。さらに両古墳の立地をみると、ともに琵琶湖を眺望できる標高150mあまり(琵琶湖との比高約70m)の山腹に立地していることが注目されます。
宇佐山13号墳や打下古墳のような、主体部に箱式石棺を用いる小古墳は、日本海沿岸の山陰から丹後(京都府北部地域)にかけて多く分布します。これらの地域との関係についても今後の大きな検討課題です。
墳丘規模や県内では稀な箱式石棺、副葬品の内容などが類似する宇佐山古墳群13号墳と打下古墳の被葬者には共通点が多く認められます。想像をたくましくするならば、琵琶湖と関わる生業に従事した氏族の墳墓かとも思われますが、遺構や遺物の詳細な分析を重ねて、検討していきたいと思います。
図1 宇佐山古墳群 分布図(●は古墳の位置を示す。「★13」が今回見つかった13号墳)
(「埋蔵文化財包蔵地分布調査報告書」大津市教委編 1981 をもとに作成)
図2 発掘調査位置図(S=1/5,000)
皇子山古墳は、13号墳より古い古墳時代前期の首長墓。13号墳は、このような首長のもとにいた地域の有力者が葬られた古墳と考えられる。
図3 宇佐山13号墳 位置図
13号墳は、琵琶湖を眺望できる標高157mの尾根上に立地する。平地にあった集落からもよく見ることができたと思われる。
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