独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部
2010年7月17日
平城宮には、その東側に東西250m、南北750mの張り出し部があり、その南半350mの範囲を東院地区と呼んでいます。東院地区には奈良時代を通して、皇太子の居所である東宮や天皇の宮殿がおかれ、儀式や饗宴に利用されていたことが『続日本紀』などの文献により知られています。孝謙天皇の時代767年4月に完成した宝殿や、光仁天皇の時代773年に完成した楊梅宮は、この東院地区にあったと考えられています。
東院地区では、これまで南半部を中心として発掘調査を進めており、復元整備された東院庭園が見つかっているほか、多くの掘立柱建物が頻繁に建て替えられていたことが判明しています。しかし、東院全体の詳しい構造や性格はまだよくわかっていません。
このため、奈良文化財研究所では2006年度から5カ年計画で東院地区の性格を解明するために、重点的な発掘調査を行っています。2006〜2008年度には東院中枢部と想定されてる地区の調査を行ない、中枢部の西南を区画する施設を検出しました。これにより、中枢部が、宇奈多理神社からその北方の一段高い場所に位置することが推定されています。さらに、昨年度の調査(第446次調査)では、東院中枢部へ接続すると考えられる東西方向の通路が確認されました。今回の調査区は、昨年度調査区の北方、1965年に行われた第22次南調査区の東方(今回の調査区に22次調査区の東北部を一部含む)に位置し、東西通路の北側の様子を明らかにすることを目的としています。調査面積は850m2で、調査は2010年4月1日から開始し現在も継続中です。
今回の調査では、建物8棟(すべて掘立柱建物)、掘立柱塀12条、溝5条が見つかりました。これらは周辺の調査の成果に基づくと6期以上に区分できます。
第2図 第469次調査遺構全体図(S=1/100)
この地区では、これらの建物群が形成される以前に、北東ー南西方向に開析する谷があり、その場所を平坦に造成して建物群がつくられています。また、建物の建て替えに際して何度も整地を繰り返しています。現状では、これらの整地土によって覆われている遺構も少なからず存在しているので、未発見の建物群が存在すると予測されます。以下では、現在までに見つかっている遺構について、時期別に述べます。
塀1〜3、溝4からなる時期。調査区中央部に溝4と東西塀(塀1)がつくられ、その西端に柱位置を合わせる南北塀(塀3)がつくられる。奈良時代前半。
調査区北よりに掘立柱塀(塀5)のみがつくられる時期。平城遷都(745年)後まもなくのころ。
建物6〜9、塀10からなる時期。中央の区画塀(塀10)の北側に4棟の建物(建物6〜9)がつくられます。ただし、建物8と9は近接しており、並存したとは考えにくく、建て替えと考えられます。およそ孝謙天皇(749〜758年)のころ。
建物11、塀12・13、溝14からなる時期。塀12の南側に建物群が展開します。およそ淳仁天皇(758〜764年)のころ。
建物15・16、塀17、溝18からなる時期。調査区の南側に、東西棟建物(建物15)と総柱建物(建物16)がつくられます。前者の東側柱と後者の西側柱の柱筋がそろっています。また、調査区北側には、建物15の北側柱から18m(60尺)はなれて、区画塀(塀17)がつくられます。およそ称徳天皇(764〜770年)のころ。
建物19、塀20〜22からなる時期。塀21と22との間の距離は4.5m(15尺)で、この2条の柱列で回廊を形成している可能性があります。その北側には掘立柱建物(建物19)、区画塀(塀20)がつくられます。およそ光仁天皇(770〜781年)のころ。
6期
今回の出土遺物には、土器(土師器・須恵器)、瓦、(せん)、金属製品(巡方(じゅんぽう)・佐波理(さはり)碗片)、銭貨(神功開寳(じんごうかいほう):765年初鋳)などがあり、このうち土器、瓦は特に多量です。土器の種類として食器類や大型の甕が目立っています。墨書土器も数点出土しています。
遺物は、溝4・18からが最も多く出土していて、これらの溝付近を境として、南側よりも北側で出土量が多い傾向があります。
東院中枢部の北西に位置する今回の調査区の周辺では、南に幅15m(50尺)の通路があり、これをはさんで南北に建物群が存在することがわかっていました。特に通路の南側では大規模な総柱建物群が検出されていました。今回の調査では、通路北側における建物群の構造の一端をつかむことができました。調査は継続中ですが、現状での成果を以下に示します。
今回の調査区中央部と北側で数時期にわたって何度も建て替えられた東西塀が確認されました。特に調査区中央部の東西塀は、2期を除いてすべての時期に機能しており、北側の塀も2・5・6期に機能していたと考えられます。また、中央の塀に隣接して幅約1mの溝が2条(溝4・18)あり、このうち溝4は石組をもっています。この溝をまたぐ建物が存在しないので、塀の有無に関わらず、区画溝として機能していた可能性が高いと考えられます。この調査区中央部の塀と溝を境界として、南北に各時期に建物郡が配置され、5・6期にいたって北側に塀が増設されたようです。
前述の中央の区画(塀および溝)をはさんで南と北では、建物群の規模と展開が異なっています。南側では、柱間距離や掘方をみると大規模なものが多いが、北側に小規模なものが多い。また、南側では、ほとんどの時期に建物が配置されるが、中央の区画と北側の塀との間では、3・6期のみに建物群が配置され、その他の時期には空閑地となっています。
この中央の区画を境界とする南北差は、遺物の出土状況や内容にも表れており、南側よりも北側での出土量が多いという傾向があります。遺物の内容として、食器類や大甕が目立つことから、より北側でこれらを保管あるいは使用していた可能性があります。こうした状況は、今回の調査区より南方で見つかった大規模な総柱建物群が展開する空間では、認められません。遺物の内容と豊富さは、これらの空間とは性格が異なることを示し、この付近が東院地区での人々の生活を支えたバックヤード的機能を備えていた空間であったと考えられます。
今回の調査では6期以上の建物群の変遷が認められました。これとともに、特に標高が低い場所において何度も整地を繰り返しながら、建物の建て替えが行われていた痕跡が確認できました。この地区では、当初北東ー南東方向に開析する谷があり、その場所を平坦に造成して建物群がつくられています。こうした地形の改変は、地盤の軟弱化などその後の建て替えに何らかの影響を与えたらしく、これを改善するために整地を繰り返していたと想定されます。
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