独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部
2010年7月17日
721(養老5) | 1.23 | 元正 | 佐為王ら16人に執務終了後東宮で皇太子(後の聖武天皇)の教育にあたらせることにした。 |
728(神亀5) | 8.23 | 聖武 | 東宮に天皇が出御し、皇太子の病気平癒を祈り諸陵への奉幣を行った。 |
752(天平勝宝4) | 4.8 | 孝謙 | 東大寺大仏開眼供養会への行幸にあたり、大納言巨勢奈弓麻呂と中納言多治比広足を東宮の留守官、中納言紀麻呂を西宮の留守官に任じた(『東大寺要録』供養章)。 |
4.9 | 東大寺大仏開眼供養終了後、天皇は東宮に帰った(『東大寺要録』。『続日本紀』は田村第に帰ったとする)。 | ||
754(天平勝宝6) | 1.7 | 東院に天皇が出御し、五位以上の役人と宴会(後の白馬(あおうま)の節会に相当)を催した(『万葉集』4301番の題詞では、東常宮の南大殿とする)。 | |
765(天平神護1) | 1.7 | 称徳 | 高麗福信が造宮卿に任じられた(『公卿補任』)。 |
767(神護景雲1) | 1.18 | 東院に天皇が出御し、諸王など51人の叙位を行った。 | |
2.14 | 東院に天皇が行幸し、出雲国造の神賀詞奏上の儀式を行った。 | ||
4.14 | 東院の玉殿が完成し、役人がみなお祝いに集った。瑠璃の瓦(緑釉や三彩の瓦)を葺き美しく彩色した建物で、玉宮と呼ばれた。 | ||
12.9 | 従五位下多治比長野を造東内次官に任じた。 | ||
768(神護景雲2) | 7.17 | 修理職の長官・次官を任じた。この頃(768〜770)、石上宅嗣が造東内長官としてみえる(西大寺旧境内出土木簡(奈良市教育委員会調査))。 | |
769(神護景雲3) | 1.8 | 東内に天皇が出御し、吉祥天悔過の法要を行った。 | |
1.17 | 東院に天皇が出御し、侍臣と宴会(後の踏歌の節会に相当)を催し、また、朝堂において主典以上の役人と陸奥の蝦夷の宴会を催した。 | ||
770(宝亀1) | 1.8 | 東院において次侍従以上の役人の宴会を催した。 | |
772(宝亀3) | 12.23 | 光仁 | 彗星が現れたので、100人の僧侶を読んで楊梅宮において宴会を行った。 |
773(宝亀4) | 2.27 | 楊梅宮が完成した(高麗福信が造宮職として造営を担当)。この日、天皇は楊梅宮に移った。 | |
774(宝亀5) | 1.16 | 楊梅宮において五位以上の役人と宴会(後の踏歌節会に相当)を催した。また、朝堂において出羽の蝦夷の俘囚の宴会を催した。 | |
775(宝亀6) | 1.7 | 楊梅宮の後安殿(安殿か)において宴会(後の白馬の節会に相当)を催した。(『官曹事類』逸文など)。 | |
777(宝亀8) | 6.18 | 楊梅宮の南の池に一本の茎に二つの花のある蓮が咲いた。 | |
9.18 | かつて藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)は楊梅宮の南に邸宅を建てた。東西の楼や槍状の南文などを内裏を遠望できる建物を建てたので、人々の顰蹙をかった(藤原良継の薨伝にみえる)。 |
(特記したもの以外は、『続日本紀』による)
[造東ヵ]
1.・□□内司運蒭一百[ ]出小子門
・ 十月廿八日□[ ]小野滋野
(『平城宮木簡』3、3006号。小子門付近の東一坊大路西側溝SD4951出土)
2.・ 靭負筏麻呂
東内宮守 桑□
「家式」桑
・合五人 五月
「五百
桑原□□□」
(「平城宮発掘調査出土木簡概報』15。宮南面西門付近の二条大路北側溝SD1250出土)
※ 東宮、東院、東内は、奈良時代を通じて平城宮東張り出し部南半にあり、皇太子がいる時はその居所「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」「東院」「東内」として利用され、宝亀年間には「楊梅宮」に改造されたと考えられる。
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