- 開催日
- 2016年(平成28年)4月29日(祝・金)
- 調査場所
- ハ京都市上京区下長者町通新町西人藪ノ内町42番地
- 調査期間
- 平成27年9月1日〜平成28年10月下旬(予定)
- 調査機関
- 公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
〒617-0002京都府向日市寺戸町南垣内40-3
URL www.kyotofu-maibun.or.jp
目次
配布資料
1.はじめに
今回の発掘調査は、京都府警察本部新庁舎建設工事に先立ち実施しています。
調査地は、下長者町通と新町通に面し、京都府庁の北に位置します。この場所は平安京の左京一条三坊二町にあたり、平安時代には、内裏の守護にあたった左衛門府の官人の居住区でした。安土桃山時代には、豊臣秀吉が西洞院通の西側に築いた聚楽第に伴う大名・武家屋敷地として整備されたと考えられています。その後、大名・武家屋敷は伏見城(指月城)の築城や聚楽第の破却に伴い、伏見に移転し、江戸時代には、町屋として利用されました。幕末には、京都守護職上屋敷が設けられ、現在、その敷地が京都府庁に引き継がれています。
2.調査の成果
発掘調査は、調査地を小地区に分け、順次調査を行っています。各地区で室町時代から近世の遺構を検出しました。
幕末
地表下約0.5mで、幕末の遺構を確認しました。後世の削平により失われていた部分も多いですが、礎石建物3棟分に伴う根石や石組の溝1条です。根石は直径約0.8m、深さ0.2〜0.4mの穴に礫を充填しており、その上部に礎石を据えたと考えられます。石組の溝1は調査地の南西隅で検出した東西方向の溝です。
安土桃山時代〜江戸時代初頭
柱穴、井戸、溝、大型土坑群などを検出しました。安土桃山時代の遺構と江戸時代の遺構を同一面で確認しました。
大型土坑群は一辺2.5〜5mの円形や楕円形で、南北に連続して掘られていました。深さは約1〜1.7mあります。埋土からは江戸時代初頭から前半(16世紀末〜17世紀前半ごろ)の遺物が多数出土しており、ゴミ捨て穴と考えられます。また、土坑群の西側にあたる調査区では固く締まった整地面を確認しました。
溝2は、南北に延びる溝で23.5m分を検出しました。幅2.1mで、深さは約1.5mあります。調査地を縦断するとみられ、敷地を区画するものと考えられます。出土遺物から安土桃山時代の遺構と判断されます。
室町時代
柱穴、溝、井戸、土坑などを検出しました。溝3は調査地の南側で検出しました。東西に延びる溝で、24.2m分を確認しています。
平安・鎌倉時代
明確な遺構は現在のところ検出していませんが、平安時代中期〜鎌倉時代の遺物が出土しています。
3.まとめ
京都府庁敷地には、京都守護職上屋敷が置かれていましたが、これに伴う遺構を初めて確認することができました。
江戸幕府は幕末の動乱期に、京都における治安維持のため、文久2(1862)年に初代京都守護職に会津藩主松平容保を任命します。翌年には、当地に守護職の御用屋敷の造営が開始され、慶応元(1865)年に完成します。「守護職上屋舗絵図」(第2図)からは当時の屋敷のようすがうかがえます。
今回、屋敷に伴う建物3棟を確認しました。建物1・2が東西棟、建物3が南北棟になり、上記の絵図の長屋風の建物にあたると考えられます(第4図)。建物の重量に耐えられる基礎をもっていることは、これらの建物が2階建であるという記述と合います。これらの長屋には、会津藩兵が駐屯したものと考えられます。溝1は、絵図に記される、主要建物の北に位置する「局部屋」に伴う排水施設とみられます。
安土桃山時代の遺構は、溝2があり、大名屋敷を画するために掘削された可能性があります。遺物では、金箔瓦や金箔を押した土師器皿など、大名屋敷に伴う遺物が出土しました。
江戸時代初頭の大型土坑群や整地面は、大名・武家屋敷移転後に築かれた建物敷地に伴うものと考えられます。大型土坑から出土した遺物には、日常的に用いられた雑器の他、多くの輸入陶磁器や茶陶が含まれています。当地には裕福な商人層の屋敷があった可能性が想定されます。
今回の調査によって、土地利用の変遷などを知る上での資料を得ることができました。
結びに、発掘調査に御理解、御協力いただきました皆様に深く感謝申し上げます。
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターのホームページにPDFが公開されています。
展示パネル
発掘現場写真
OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影
出土遺物
OLYMPUS E-M1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影
主催者説明ビデオ
建物1、2の説明
下層遺構の説明
iPhone 6sで撮影