配付資料
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石神遺跡第16次調査
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|石神遺跡の概要|調査の目的/検出した主な遺構/出土した主な遺物/まとめ|出土木簡 釈文と解説|
※下記の文、写真・図は、すべて当日の配付資料からです。
奈良文化財研究所 |
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石神(いしがみ)遺跡の概要 百年前に小字石神の水田から噴水施設と考えられる石人像(せきじんぞう)と須弥山石(しゅみせんせき)が出土し、1936年の調査では石組溝や石敷が発見されました。その後、この遺跡は石神遺跡と名づけられ、1981年以降の本格的な発掘調査によって7世紀前半から藤原宮期まで大きく3時期の遺構を確認し、施設を造り替えながら利用してきたことが明らかになりました。また、石神遺跡の施設群は、南限を漏刻台(ろうこくだい)の跡である水落遺跡の北側、第3・10次調査で検出した東西塀とし、北限を第13・14次調査で検出した東西石組溝と東西塀として、南北約180mの規模を有することもわかりました。 A期のうち最も整備されたA−3期(斉明朝)は、長大な建物で囲まれた東西二つの長方形区画の内外に、大規模な掘立柱建物群、石敷の井戸、石組溝や方形池がつくられ、区画の北方には倉庫などが設けられました。出土土器の中には東北地方産の土師器(はじき)椀や中国・朝鮮半島産の土器があり、これらの遺構は、蝦夷(えみし)をはじめとする辺境の民や朝鮮半島からの使節(高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら))を迎えて饗宴をした施設と考えられます。 B期(天武朝)にはA期の施設を全面的に取り壊して整地した後、長大な建物や塀が営まれ、様相が一変します。これらは役所的な施設と考えられます。 C期(藤原宮期)には掘立柱塀で囲んだ一辺約70mの役所的な方形区画がつくられ、その東側は両側に側溝のある南北道路になります。 昨年の第15次調査では、施設群の北側でも3時期の遺構を確認しました。A期は調査区全体が沼で、B期には沼を埋める整地をし、L字形で池状の溝を掘っています。C期は南北道路の西側溝や石敷、掘立柱建物が設けられています。 |
↑石人像(復元) ↑須弥山石(復元) ↑方形石組池(西から 第6次調査) ↑施設群の北限(北西から 第14次調査) ↑南北大溝(東から 第15次調査) ↑錯綜する石組溝(南から 第8次調査) ↑具注暦木簡(第15次調査出土) |
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石神遺跡・水落遺跡復元模型(南西から) |
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