配付資料
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石神遺跡第16次調査
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|石神遺跡の概要|調査の目的/検出した主な遺構/出土した主な遺物/まとめ|出土木簡 釈文と解説|
※当日の配付資料はすべて縦書きです。
奈良文化財研究所 |
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(1) |
(表)方原戸仕丁米一斗 (168)×29×2 051 南北溝 ※仕丁(しちょう)とは、みやこにおいて様々な官司(かんし)(中央の役所)の雑役に従事した人々のことで、全国のサト(「五十戸」もしくは「里」と表記)から二名ずつ徴発され、各官司に配属されていました。「方原(かたのはら)」は三川国穂評(みかわのくにほのこおり)の参河国寶飫郡(みかわのくにほおぐん)、現在の愛知県蒲郡市付近)にあったサトの名前で、仕丁の出身地の戸(税制上の一世帯)を表しているとみられます。「米一斗」は、食料として仕丁に支給された米の量でしょう。裏面は別筆で、「あしのはにしも…」と万葉仮名で記しています。 |
(2) |
(表)□ 296×57×5 051 南北溝 ※サイト管理者注:「汗」はさんずいに「于」です。 ※大型の帳簿木簡です。「地名」+「容量」を一単位とする項目が列記されています。「鳥取(ととり)」「桜井(さくらい)」「青見(あおみ)」「知利布(ちりふ)」は三川国青見評(あおみのこおり)(後の参河国碧海郡(あおみぐん)、現在の愛知県安城市・知立市付近)に存在したサトの名前です。「二升」は米の量でしょう。東大寺正倉院に伝わる奈良時代の文書からは、諸宮司に配属されていた仕丁に対して、一日二升の米が支給されていたことが確認できます。この木簡は、三川国青見評の様々なサトから徴発されてきた仕丁に対して、食料米を支給する際の帳簿であると推定できます。 |
(3) |
〔廿四カ〕 (210)×24×5 039 池状遺構 |
(4) |
壬辰年九月七日三川国鴨評□口 (199)×(12)×5 081(池状遺構) |
(5) |
(表)壬辰年九月廿四日万枯里長部大真 213×29×6 032 池状遺構 |
(6) |
鴨評万枯里物部稲都尓米五斗 ※サイト管理者注:尓は「にんべん」に「尓」です。 217×20×3 032 池状遺構 ※(3)〜(6)は四点とも米俵に付けられた荷札木簡です。(3)・(4)・(5)には壬辰年(みずのえたつのとし)(持統六年、六九二年)九月の日付が記されています。地名はいずれも三川国鴨評(かものこおり)(後の参河国賀茂郡(かもぐん)、現在の愛知県豊田市付近)にあたりますので、同一の地域からほぼ同時に貴進された荷札がまとまって捨てられていることになります。なお、(3)の「六斗」という容量は、仕丁に支給される食料米のちょうど一ケ月分に相当することから(二升×三十日=六斗)、仕丁の生活費に充てるために貢進された米の可能性があります。 |
(7) |
(表)丙戌年口月十一日 (100)×14×2 019 池状遺構 |
(8) |
(表)三川国青見評大市部五十戸人 195×23×3 032 池状遺構 ※(7)・(8)は三川国青見評大市部五十戸(おおいちべのさと)(後の参河国碧海部大市郷(おおおいちごう)、現在の愛知県安城市付近)から貢進された荷札木簡です。(7)は丙戌年(ひのえいぬのとし)(朱鳥元年、六八六年)の年紀を記します。サトの表記は、天武十二年(六八三年)頃から「里」表記が出現しますが、この木簡はそれより遅い時期にも古い「五十戸」表記を用いています。 |
(9) |
己卯年十一月三野国可尓評 140×34×5 032 南北溝 |
(10) |
(表)己卯年八月十五日口 (96)×32×2 039 南北溝 ※(9)・(10)は己卯年(つちのとうのとし)(天武八年、六七八年)の年紀を記す荷札木簡です。(9)は三野国可尓評(みののくにかにのこおり)(後の美濃国可児郡(みののくにかにぐん)、現在の岐阜県可児市付近)から貢進されたものです。 |
(11) |
(表)汗和評仕俵 ※サイト管理者注:「汗」はさんずいに「于」です。 (107)×(23)×3 081 池状遺構 ※汗和評石野五十戸(うわのこおりいわののさと)は、後の伊予国宇和郡石野郷(いよのくにうわぐんいわのごう)、現在の愛媛県宇和町付近にあたります。裏面は天地逆に記しています。平城宮跡や宮町(みやまち)遺跡(聖武天皇の「紫香楽宮(しがらきのみや)」推定地、滋賀県信楽町)から出土した奈良時代の木簡には、仕丁を「仕」と略記する例があります。よって、仕丁の食料米を詰めた俵に付けられていた木簡と考えられます。 |
(12) |
(表)竹田五十戸六人部乎 121×20×3 032 土坑2 ※旦波国氷上評竹田五十戸(たんばのくにひかみのこおりたけだのさと)(後の丹波国氷上郡竹田郷(たんばのくにひかみぐんたけだごう)、現在の兵庫県市島町付近)の六人部乎佐加(むとべのおさか)という人物から貢進された柏(かしわ)の葉に付けられた荷札木簡です。柏の葉は食物を盛る食器として用いられたもので、葉を何枚も重ねて束にし、俵に詰めて送られました。平安時代に成立した『延喜式(えんぎしき)』にも、丹波国が毎年柏の菓を貢進していたことが記されています。 |
(13) |
於賦 82×20×3 032 南北大溝 ※物品を整理する際の付札木簡と考えられます。「於賦」は「おふ」と読み、白貝(於富(おふ))という貝を意味します。ウバ貝の古名ではないかという説もあります。 |
(14) |
口口口評大夫等前謹啓 091 南北大溝 ※「口口口評大夫(まえつきみ)等の前に謹(つつし)みて啓(もう)す」と読みます。「大夫(まえつきみ)」と呼ばれる位の高い人物に対して謹んで申し上げる、という意味です。このような表現は七世紀の上申文書には一般的なものです。「評大夫(こおりのまえつきみ)」と読んで評の長官などを意味したものか、「口口口評」と「大夫」以下を切り離して読むのかは明らかではなく、今後の検討を要しますが、宮司における政務(まつりごと)に関わる木簡であることは確実です。 |
(15) |
〔不カ〕 (259)×(11)×18 081 池状遺構 |
(16) |
(表)九々八十一口[ ] (71)×(19)×4 081 南北大溝 ※(15)は『論語』学而(がくじ)篇の一節「子曰(いわ)く、学びて時に之(これ)を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より来たる、亦(また)楽しからずや。」の習書(しゅうしょ)(字の練習)、(16)は九九を記したものです。『論語』を習書した木簡は、昨年度実施した石神遺跡第15次調査や、飛鳥池(あすかいけ)遺跡(奈良県明日香村)、観音寺(かんのんじ)遺跡(徳島県徳島市)などから七世紀のものが出土しており、当時の役人にとってはごく一般的な習書のテキストでした。九九は、呪句(じゅく)(まじないの文書)の可能性もありますが、習書だとすれば、計算を日常的に行なつていた役人が記したものでしょう。 |
(17) |
留之良奈尓麻久 ※サイト管理者注:尓は「にんべん」に「尓」です。下の「尓」は「尓」です。 91×55×6 065 池状遺構 ※羽子板状の木製品に文字を刻みつけたものです。万葉仮名で七文字ずつ、二行にわたって記しています。読みは「るしらなにまくあさなきにきや」となります。 |
《意義》 | 木簡の年紀は天武朝〜持統朝で、すべて評制下の木簡です。昨年度実施した石神遺跡第15次調査出土の木簡と同様、七世紀後半の木簡が大多数を占めています。今回は、仕丁の存在をうかがわせる木簡が多数出土しました。「五十上」(五十人の仕丁集団の統卒者)と記された墨書土器の出土も仕丁の存在を裏付けています。仕丁は出身地ごとに集団を形成していました。三川国の木簡がまとまって出土したのも、そのことと関係があるとみられます。また、文書木簡や習書木簡など、役人の事務活動を示す木簡も出土しました。今回の調査区内では建物の痕跡は見つかりませんでしたが、役人が勤務し、多くの仕丁を使役していた宮司が付近に存在したことがより確かになったと言えるでしょう。 |
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