長原遺跡

※下記の文、写真は、すべて当日の配付資料からの引用です。

現地説明会資料
大阪市平野区長吉長原1丁目[長原東住宅敷地]
2004年1月24日(土)
大阪市教育委員会
財団法人 大阪市文化財協会

1.人々の生活の場(弥生時代中期後葉〜後期/およそ紀元前1世紀〜2世紀)

およそ2,100年前〜1,800年前、考古学の区分で弥生時代中期後葉から後期と呼ばれる時期には、この地は人々が暮らす集落だったようです。

まず弥生時代中期には、竪穴住居たてあなじゅうきょ2棟や、大溝が見つかりました。このうち、調査地西端の大溝からは多量の土器が出土しましたが、その中に銅鐸形土製品どうたくがたどせいひんも含まれていました。

銅鐸形土製品は、銅鐸(当時のお祭りに使ったと考えられている)を真似て作ったものです。線を刻むことによって、銅鐸の文様を表現しています。また、銅鐸には型持と呼ばれる穴が空いていますが、この型持穴も表現されています。

その他、調査地の南西端では地面が焼けた跡が見つかっています。詳しい性格はまだわかりませんが、当時の人々が火を使ってどんな作業をしていたのか、今後の調査で解明していきたいと思います。

また弥生時代後期にも調査地は人々の暮らす場だったようで、井戸や土器捨て場などが見つかっています。

図3 竪穴住居の一例


←通常、発掘調査で見つかる竪穴住居の痕跡は、地面を掘りくぼめた部分や、柱の跡など、地表面よりもへこんだ部分のみです。しかし、本来はこの図のような構造を持っていたと考えられます。
(図は『卑弥呼の時代を復元する』学習研究社、2002年発行より)

 


写真2:銅鐸形土製品

写真1:大溝の土器群