2005年2月6日(日)
調査地 | 京都府綴喜郡井手町大字井手小字東高月(ひがしたかつき) | 調査主体 | 井手町教育委員会 | 調査期間 | 平成16年11月1日から平成17年2月12日(予定) | 調査面積 | 約180平方メートル 1〜4トレンチ+拡張 | 調査目的 | 井手寺跡の範囲・内容確認 |
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出土遺物 | 整理用コンテナ約40箱(1月31日現在) |
井手町では、現在、井手寺跡の範囲・内容確認のための発掘調査を実施しています。井手寺跡の発掘調査は、平成15年度から4ヵ年計画で実施する予定で、2年目にあたる今年は約180平方メートルを発掘しました。つきましては、ここに今年度の調査成果を報告いたします。
井手寺は、奈良時代の政治家、橘諸兄が創建に係わったとされる古代寺院です。橘諸兄は、奈良時代の中頃(8世紀中頃、聖武天皇の時代、天平期)、左大臣として政権首班をつとめ、恭仁宮遷都や国分寺の造営などの諸政策を推し進めた人物です。井手寺は、橘諸兄が橘氏の氏寺として創建した寺院であると考えられています。
井手寺についての詳しい内容は、これまで明らかではありませんでした。古い記録が少なく、立地していた上井手の台地一帯が、明治以降に開墾され、寺の存在を示す遺構がわからなくなっていることがその理由です。しかしながら、昨年度の発掘調査により始めてその一端が確認されることとなりました。
・昨年度、
30〜40cm大の石を中心に約210石余りの石が検出されました。一部には石が抜かれた痕跡も確認できます。石敷きの南に高みがあり何らかの建造物の存在も考えられます。
・さらに、この石敷きに関しては庭園遺構の一部とのみかたもできます。石敷きの北には2石ずつ南の石敷きから離れたところに存在し、その間石が敷き詰つめられていたか今のところ確認できない空間があります。さらに石敷きの南に壇上の高みがあり、水辺へのはりだし部分とも考えられます
第1トレンチの瓦溜りの上層で17点の「先瓦
粘土板に、線刻で花文をあらわし、さらに釉薬で彩色しています。緑釉、白釉、褐(黄)釉が確認できます。素地には非常に質の良い、きめの細かい粘土を用いています。 釉が施された棒先瓦は、平城京の大寺などの出土例があります(大安寺・薬師寺・西大寺)。
なお、文様を、線刻であらわし、釉薬で色を塗り分けたものは、昨年度はじめての出土例となりましたが、今年度はその色が鮮やかに残り、当時の華麗な色合いがそのまま見てとれます。
さらに、昨年度出土の破片から復元した文様を含め、3種類の細部で異なる文様が復元できました。この他復元文様とは異なる文様を持つ破片が2片有り、少なくとも3種類以上の文様が存在したことが明らかになりました。本来必要のない裏面まで釉薬が施されており、その贅沢さとともに、制作方法についても今後の研究課題となります。
出土した軒瓦は昨年度出土した形式とほぼ同じで、恭仁宮跡で出土した文様と同じものを含みます。昨年度と大きく異なるのはその量で軒丸瓦は約50点を超えると思われます。成果2の種木先瓦の破片に同一個体が存在しないことから、一次的崩落による瓦の溜りではなく、二次的に溝もしくは土坑状のくぼみに廃棄されたと考えられます。また、基壇の側面などを化粧した凝灰岩が含まれることから、かなり大規模なもしくは基礎部分からの廃棄とおもわれます。第4トレンチと同じく11世紀の土師器片が出土しており、この頃までには建物の大半が崩壊していた可能性があります。
昨年度の調査で、今まで謎であった井手寺の存在が確認されました。今年度の調査では、昨年検出した壇上積の基壇を持ち、大きな礎石の据付穴で形成された建物に向かうであろう石敷きを検出しました。その規模は石の大きさ、幅から官寺に匹敵する伽藍規模である可能性が考えられます。しかしながら、石敷きを庭園遺構の一部とも考えることもでき、井手寺跡周辺にどのような建物や建造物が存在したのか今後の調査への課題が提起されることとなりました。出土した大量の瓦、鮮やかな色合いを残す線刻の三彩棒先瓦の出土は、その建物の壮大華麗さを示し、この地に勢力を持った橘諸兄という人物の権勢の大きさ示すものと理解できます。
今回の調査成果からは、井手寺が平城京の大寺に匹敵する寺院であったことが想像できる一方で、伽藍配置や寺域の確認に課題を残すこととなりました。